見出し画像

季語を作った日|俳句修行日記

 あまりの暑さに、「むし部屋に変な生物わくわく」と詠んだ。師匠、一瞥して「何じゃコレ」という。「地球温暖化を、『むし部屋』に託して詠んでみました」と答えると、「それは何のつもりじゃ?」と。
 誰もが共感する新しい季語を作りだしたと自慢したかったのだが、「俳句を廃れさすのは、おまえのような輩だぞ」と師匠。

「季語の位置付けも知らんで、『季語即俳句』の認識で季語を量産しとっては、先人の努力を無に帰すことに等しい。」

「季語」とは、連歌の式目がアレンジされていく中で、俳句に遺された形代だという。師匠の見立てによると、その遺産は無秩序にばらまかれてしまい、今では収拾がつかなくなってしまっていると。さらには、次々と「発見」されていく新たな季語により、過去との隔絶が生じているのだと…

「そもそも季語は、十七文字という制限の上に、使用する言葉の制約という縛りを植え付けるもんじゃ。今の勢いで季語を生み出していくと、俳句の表現幅はどんどん狭くなる。しかも現在のように『季重なり』をとやかく言う風潮があると、膨大になり過ぎた季語に振り回されて、安易に俳句を詠むこともできん。すると、おのずと俳句離れにつながるじゃろう。」

「俳句の最大の特徴はシンプルさにある。それは、多くの人々に門戸を広げ、優雅なコミュニケーションを生み出すことにも与しておる。それを『季語』という威光をかざしてかき回せば、社会に混乱をきたすことにもなりかねん。」

「じゃあ、季語はどのように扱うべきで?」というボクの問いに、「歳時記は参考書程度にとらえよ」と師匠。
 そこに掲載された季語にとらわれるのではなく、歳時記を参考にして、どのような言葉を使えばどのような『時間』が表現できるかに注力せよと。
「俳句とは、おのれを取り巻く時空を見つめるためのものであって、季語はあくまで、気付きのための道具でしかない。」
 師匠のたまう。「偏狭な『季語』に頼り切れば、自分の立ち位置を見誤ることになるもんぞ」と。(修行はつづく)