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日本語のかたち|俳句修行日記

 日本には様々な古代文献がある。大半は偽書の烙印が押されているが、「中には国語の成り立ちのヒントとなりそうなものもある」と師匠はいう。それらを掻き混ぜると『一音一義説』というのがよぎるが、それは、国学者らによって提唱された『一音に一つの意味が括りつけられているんじゃないか』という考えである。
 それに同意する部分もあるとして、師匠は『自己修養のための言語』と、これをとらえる。

 記紀や万葉集をめくれば、日本語は、漢字の流入以前から同音異義語であふれた言語ではなかったかと想像できる。そうなったのは、積木のような成立過程を持っているからだと師匠は考えている。つまり、音節ごとにそれぞれの『情』を定め、重複も許容しながら、繋げることによって言葉の意味を定めていったものなのだと。そして、当初は化学式のように用いられたものが、やがて祭祀によって体系化され、万民が和歌として親しむ中で、生活に定着していったものなのではないかと。
 このように考えると、日本語は、コミュニケーションを目的として生まれた言語とは言えないだろう。しかし、「そう考えた方が、しっくりくるんじゃないかな」と、師匠のたまう。

「つまり日本語は、こころの内を灯す言語じゃ。一音の持つ響きを大切にし、それを発することで、自らの内面を明らかにする。それは他者に指し示すものではなく、先へと進むための道標として、こころの内に刻み置くものぞ。」


 言葉というものは、他者あってこそのものだと考えられている。そうだろうか?他者を動かすためのものが言葉だろうか?そう考える限り人の歴史は、対立に塗れた禍々しいものとして記録され続けるだろう。
 日頃の師匠、「言葉は修練の道具、思いは行動に表すもんぞ」と言う。(修行はつづく)