コミュ障を治そうとした話 前編

こんにちは。ラストJDのじょんです。今日はコミュ障を治そうとした話を書かせていただこうと思います。思ったより長くなったので、前、、後編に分けさせていただきました。それでは、書かせていただきます。

「人見知り」であって「コミュ障」ではないという思い込み

私は小さい頃から、初対面の人と話すのが苦手でした。でも、小学校までは、クラスの全員と男女問わず分け隔てなく話せていました。そう、この頃までは普通の「人見知り」だったのです。

中学校から、すっかり変わりました。
まず、友人にめちゃくちゃ影響されました。小学校後半からほんのりとオタクロードを突き進んでいましたが、友人の影響で完全にオタクになりました。オタクになるだけならよかったんですが、そういうわけにはいきませんでした。
この時期に私は、「中二病」と「不快感を与える振る舞い」の二つを兼ね備えたコミュ障となってしまったのです。
そのせいで、中高時代は部活(美術部)以外での交友関係はほぼ皆無でしたし、クラスにも全然馴染めませんでした。青春なんてなかった。いや正確には微っっっっっ妙にはあった。見栄を張らせてくれ…

「中二病」と「不快感を与える振る舞い」

具体的にどんな奴だったのかを、自覚している限りで書かせていただきます。

まず、中二病の方から。私は、

①「他の人とは違うことをしている私」に酔う(流行がダサいと考えていた)
②アニメキャラの一人称や喋り方を真似る

という感じの中二病でした。痛い。

次に、不快感を与える振る舞いの方。私は、

①公共の場で大声でオタクトークをする
②早口で話す(早ければ早いほどいいと思っていた)
③みんなが知らない単語を使って話す
④ネット用語を常用する(俺氏、など)
⑤身だしなみに気を使わない(私服はパーカーにジーンズ、顔すっぴんでテカってました。そして汗臭かったです)
⑥目を合わせないで話す
⑦勉強ができる方だったので、自分より下の成績の人を見下す

という感じの振る舞いをしていました。

今振り返ったらそりゃ友達できね〜〜わな、って思います。
しかしこの時点では、自分がコミュ障であるという自覚がありませんでした。

転機

上記のようなコミュ障のまま、高校生になりました。当然高校デビューなんてできませんでしたし、イケイケなクラスメイトたちになじむことができませんでした。

部活は、はじめは漫画研究部に入る気満々でした。
しかし、フラッと美術部の見学に立ち寄りました。ここも絵描く部活だしな〜、と思ったためです。
高校の美術部は、大会に参加するようなガチめな部活でした。中学まで、のほほんと小さな紙にアニメキャラの絵を描いていた私には、ハードルがとんでもなく高く感じたのです。
なので、顧問の先生に「漫研と迷って見学に来たんですけど、先輩方みたいな絵が描ける自信ないです」みたいなことを伝えました。すると、顧問の先生に「お前漫研みたいなとこで高校終わっていいのか?」みたいに説得され(漫研に失礼)、ちょっと高校に憧れを抱いた私は、勇気を出して美術部に入ることにしました。

その後、なんとかなんとか美術部員として活動していたのですが、この顧問の先生がなかなか歯に衣着せぬ発言をする先生でした。私のことを「コミュ障」とめちゃくちゃ言ってきました。

そう、私はここで己がただの人見知りではなく、なかなかにこじらせた「コミュ障」であることに気づいたのです。

「コミュ障」をはじめとしたネタで、先生は本当に本当にかなりの頻度でいじってきました。それがすごく嫌で、「コミュ障を治したい!!!もう馬鹿にされたくない!!!」という思いが湧きました。転機が訪れました。
正直ここでコミュ障と言われ続けられることがなかったら、己を変えようとも思わなかったでしょう。顧問の先生には大変感謝しております。

また、もう一つ、コミュ障が原因で部長になれなかった、ということも転機の一つだったりします。同期に「コミュ障だから後輩や先輩とコミュニケーション取れなさそう」と言われました。私は中学の時に美術部の部長をしており、また同期の中では成績トップでした。そうしたスペック的な面から当然部長になれるものだと思ってましたため、ショックを受けました。人をまとめたり信頼されるには頭いいとかのスペックだけじゃダメで、コミュニケーション能力がいるんだなー…、と学びました。

というわけで、中編に続きます。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


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