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「何も出来ない人間には価値がない」との向き合い方 【終末期の訪問診療と私】

このタイミングで再び「ヤツ」がやってきたのは、凄く意味のあることだなぁ、と感じている。

このタイミング
つまり、自分自身のメンタルモデルはこれなんじゃないかな、と大方の検討がついて、それと向き合おうとしている時期に訪れた「メンタルモデル的に受け入れられない事象」
それが「ヤツ」である。

「ヤツ」の正体はわからないが、最近流行りの新型コロナではないらしい。咽頭痛と鼻汁、倦怠感を私にもたらし、コンディションが最悪になる。何もできなくなる。
それによって、他者に価値が提供できなくなる。「他者に価値が提供できない自分には価値が無い」という状態になってしまう。
価値提供が出来ない、付加価値を出せない自分には価値がない、と考える。
そう考えるせいで、余計動けなくなってしまう。

最も、このタイミングで「少しでも価値を出せる方法はなんだろうか‥」と「出来ない自分」をポジティブに捉え直し、愚直にそれを実行する、という選択肢もあるはずなのだ。
しかしどうにもこうにもその方法を取ることが出来ない。不思議だよな。やれば良いだけなのに。0から比べたら、何かするだけでプラスになるんだよ、こんなに良いことはない。はずなのに‥

終末期の訪問診療 「生きているだけで迷惑をかけてしまう」

終末期の方への訪問診療、「生きてるだけで迷惑をかけてしまう、こんな自分はもう死んだほうが良い」と口にされる方も。

その人に対して「そんな事言わないで下さい、生きているだけで貴方には価値があるんですから」と口にするが、その度に違和感を抱く。

私自身「何も出来ない自分に価値は無い」と考えているにも関わらず、相手には軽々しく「生きているだけで価値がある」と口にする。そんな言葉で「あぁ、ジョンさんもそう言ってくれているし、私には価値があるんだ」となるのだろうか?


もしかすると、他の人から「存在するだけで価値があるんだよ」と言われ続ける事で、自ら「もしかしたら私は存在するだけで価値があるのかもしれない」と思えるようになるのかもしれない。
そのためには、自分自身そう思っていなくても他の人に「存在するだけで価値があるんだよ」と伝えてあげる事は、凄く重要な気がする。

そんな世界に、私もなってほしい。だから、私から始める。「存在するだけで価値があるよ」と積極的に伝えていきたい。



他者と自分を比べるから、価値が無いように感じる?- 自分軸で生きるというヤツ

無意識のうちに自分と他人を比べて、「自分はだめなんだ」と自己嫌悪に陥る。

「そんなだめな自分がだめじゃない状態になるためには、相手に価値提供をして認められるしかない」という思考フローを辿る。

価値提供をするとちやほやされるから、それはそれは楽しい時間が送れる。

でも、ある程度時間が経つとその状態が「当たり前」になってしまって、自分に対する「最低限」の基準 が上がる。
上がった先の基準で人と比べて、また同じ様なフローを辿る。これの繰り返し。

これが「価値なしモデル」が辿る無限ループだし、書籍の中で

「価値なしのメンタルモデルの人のチャレンジは、自分の価値を認め、他者に求められることよりも、自分を満たすことを優先すること、自分を大切にすることです。これができるようになると、自分と違う人の価値観や個性、多様性も認めることができるようになります」

由佐美加子,天外伺朗. ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー (Japanese Edition) (p.193). Kindle 版.

書いてあるのも、そういうことなんだろうと理解している。



小さい頃から、出来ることが増えていって、それを認めてもらう事で大きくなってきた。そうして生きているのが今の自分。

その成長自体に価値がないとは思わないけど、「ヤツ」が来る度にそういったモヤモヤを感じてしまっている以上、どこかで思考フローから抜け出さなくてはならないのだろう‥




勉強の哲学(という名の現代哲学、ポストモダニズム)、アドラー心理学、家庭医療学と来て、”メンタルモデル”という概念。

これらは全て別のように見えて、1つ1つが今の私を形成しています。
どれか1つでも欠けてしまったら、今の自分は無い。
そう考えると、一見宗教まがいに見える思想思考も、愛おしく見えて来ます。


では、また🌱


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