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【小説『影をなくした男』】2 − 1.影をなくすということ【2.ひとと人間の境目から】


 バトラーについての議論からはしばらく離れるが、のちに彼女に立ち戻って考察することにしよう。ここで考察するのは、影をなくし、人間社会から排除された男の物語だ。

「影をゆずってはいただけませんか?」
謎の灰色服の男に乞われるままに、シュレミールは引き替えの「幸運の金袋」を受け取ったが──。
大金持ちにはなったものの、影がないばっかりに世間の冷たい仕打ちに苦しまねばならない青年の運命をメルヘンタッチで描く。[7]

 アーデルベルト・フォン・シャミッソー(Adelbert von Chamisso)の『影をなくした男(Peter Schlemihls wundersame Geschichte)』という小説をご存知だろうか。ヒッツィヒがフケー宛ての手紙に「われわれに託された秘密として保管しておく手筈になっていたシュレミールの物語を、君は思い切って公刊した[8]」と記したように、原稿を預けられたフケーが勝手に出版してしまったことにより世界中で読まれるようになった作品である。おおまかなあらすじは引用の通りだが、今後の議論のために多少なりと補足をしておきたい。
 まず、この物語をぜんぶ読んでみても無限に金貨が出てくる「幸運の金袋」と引き換えに影を手にいれた灰色の服の男が何者なのかははっきり示されてはいない。この──ひとであるのかもよくわからない──人物は、他人の影を切り取り自らのものにするだけでなく、ポケットから「縦二十フィート、横十フィート」もある「金襴仕立てのあでやかなトルコ絨毯」を出したり[9]、「天幕や棒杭、紐や金具など、とびきりのテント一式」を取り出したり[10]しており、四次元ポケットを持つドラえもんを彷彿とさせる能力が描かれている。途中、当人が「悪魔ってやつは人が思うほど腹黒いものではありませんでね[11]」と述べているので「悪魔」なのかもしれないが、それも比喩なのか何なのか定かではない。
 そんな男と取引きをしてしまったがゆえに影を失ったペーター・シュレミールであるが、影をなくしてそんなに困ることがあるのだろうか?というのがおそらく一般的な反応だろう。実際のところペーター本人もそのように考えて取引きに応じた節があり、のちに「影はしょせん影にすぎないないではないか、影なんぞなくったってとりたてて不自由があるわけじゃないし、なにもそう騒ぎたてるまでもなかろう[12]」と反論したこともあった。けれども、世間は想像以上に冷たかった。影を失ったその日の帰りには「ちゃんとした人間なら、おてんとうさまが出りゃあ影ができるのを知らねえか[13]」と場末の腕白どもに馬糞を投げつけられており、「君、愛する友よ、このとき私が耐えしのばなくてはならなかった辛さを、ここに繰り返すことは勘弁してくれたまえ[14]」と表現するほどの経験をしなければならなかったのだ。結局のところ、ベンデルという誠実な召使に恵まれ、影のことを隠しながら生活しつつも、影がないことが露呈し婚約間近の恋人とは破局。その父親は「まったく、なんてこった!そうだろう、むく犬だって影ぐらいはもっているというのに、大事な大事なひとり娘のお相手が影のない男だなんて……。いや、もうあんな男のことは忘れよう[15]」と娘を励ます次第であった。
 物語そのものから一旦離れてみると、シャミッソーの生い立ちから、影を祖国と捉えるひとが多かった[16]。一七八一年、フランス北部で名門貴族の息子として生まれたシャミッソーは、一七九〇年に一家でフランスを逃れることになる。一七八九年にフランス革命が起き、革命政府に貴族の特権を剥奪されたためである[17]。一家はプロシアの首都ベルリンに落ち着くのであるが、一五歳にして初めて正式にドイツ語を教わる機会を得たシャミッソーは終生ドイツ語なまりが抜けなかったという[18]。そんな、「ドイツ人のなかにあってはフランス人とみられ、フランス人からはドイツ人とみなされ、どちらにおいてもまともに扱ってもらえない[19]」シャミッソーのことだから、影は祖国を意味しているに違いない、といった訳である。しかしながら、シャミッソー本人は一八三四年、『ペーター・シュレミール』第三版に序詞を添え、明確に否定している。

ぼくは生まれついての影をもっている
自分の影をなくしたりはしなかった[20]

 以上のことからわかるように、この物語における「影」が何であるのか、それは灰色の服の男の正体と同じように明示されてはいない。そこで、象徴的な描かれ方をしている影を失ったペーターがどのような結末を迎えたかを見ていこう。
 物語では最終的に、ペーターは影をなくしたまま、人間社会で生きることを諦める。偶然手に入れた、「一歩あるけば七里を行くという魔法の靴[21]」を活用し、動植物を観察調査する研究者の道を選んだのだ。友人であるシャミッソーへ宛て物語る形式のこの小説のなかで、ペーターは「幸運の金袋」に目が眩み灰色の服の男と契約を交わしてしまった後悔から、「かつての罪業により人間社会から締め出しを食らったかわりに、大好きな自然がわがものとなった[22]」としつつも、お金は二の次で構わないのだから、「友よ、君は人間社会に生きている。だからしてまず影をたっとんでください[23]」としている。
 ところで、この物語を解釈するうえで重要だと思われる点をひとつ明らかにしたい。それは、これだけ周囲が影のないことに冷淡でありながらも、ペーターがそうした価値観を内面化したのは灰色の服の男と取引きをし、世間の反応に触れた後だということである。ペーターとしては「幸運の金袋」と引き換えに影を手放してしまった自分にも落ち度があると考え、影を失ったその直後に「後生大事に袋の紐を握りしめていた」自身を「すっかり正気を失っていた」と表現しているが[24]、先に引用した世間のひどい仕打ちへの反論のように、そもそも影がないことについての価値観を共有していなかった可能性が高い。そのような意味で、影がない者はまともな人間ではないという考え方は世間に広く受け入れられていた価値観のように描かれているものの、あらかじめそれが存在したかは些か疑問である。一連の冷遇はあくまでも影のない人物を目にしたことへの反応と考えられ、人間たるもの影を手放してはいけませんという命題が慣習化していた形跡はない。
 そして何より、人間たるもの影があって当然、という命題は幾度となく示されている一方で、なぜ影がなければいけないのか、まともな人間とみなされないのかについて具体的に説明する人物は誰もいない。
 このように見ていくと、この物語で表現される「影」は本質的なものではないのではないか、という考えが頭を擡げる。人々は、影のない者をあたかも人間ならざるものとして扱うことが自明の理が如き挙動をとっているが、それはただ、自分とは異なる「他者」を、まさに自分とは異なるという理由で奇妙な存在と捉え、社会から排除しているだけではないだろうか。
 この物語において、影をなくすことは文字通り影を失ったということ以上の意味を持ち、引き換えに手に入れた「幸運の金袋」は、なんとか日々を生きるのに用いられるだけで、豊かさをもたらしてはくれない。なぜそのようなことになるのか誰も説明できない。作者であるシャミッソー自身、影が何であるかを明確にしていないように、おそらく影が何のメタファーであるのか、具体的に解釈すべきではないのだろう。しかし、説明できず、具体的に解釈できないからこそ、この「影」の概念は有用であるように思えてならない。

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[7]アーデルベルト・フォン・シャミッソー『影をなくした男』、岩波文庫。
[8]前掲書、ヒッツィヒ「ヒッツィヒよりフケー宛の手紙」、『影をなくした男』、一二九頁。
[9]前掲書、『影をなくした男』、一三頁。
[10]同上、一四頁。
[11]同上、九四頁。
[12]同上、六三頁。
[13]同上、二三頁。
[14]同上、二七頁。
[15]同上、八二頁。
[16]前掲書、池内紀「ペーター・シュレミールが生まれるまで」、『影をなくした男』、一四六頁。
[17]同上、一四三頁。
[18]同上、一四三〜六頁。
[19]同上、一四六頁。
[20]アーデルベルト・フォン・シャミッソー「わが友ペーター・シュレミールに」『ドイツ・ロマン派全集第五巻』、国書刊行会、三二九頁。
[21]前掲書、『影をなくした男』、一〇八頁。
[22]同上、一〇九頁。
[23]同上、一二二頁。
[24]同上、二〇頁。

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