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5.性をめぐる分析

5– 1.「女」とは何か

 女は不思議な生き物である。いわく、「仕事とアタシどっちが大切!?[40]」という「叫んでキモチのイイセリフ[40]」への模範解答は「……さみしかったんだね…ゴメン…[41]」であるという。おおよそ意味がわからない。けれども、察するに、この仕事とアタシのどちらが大事か尋ねるという行為は、実際にどちらが大切か確認するためではなく、構ってもらえずさみしいことを表現しているようである。
 筆者は仮説として「一般に、女性は同調と共感のコミュニケーションを重んじ、話をすること自体やその場を成立させることが意思疎通の目的だといわれる」と述べたが、それは本当なのであろうか。たしかに、心理学の実験から女性が「ケアの倫理[42]」を用いているという証明はできるし、上記のような例を持ち出せば共感のコミュニケーションを志向することも否めない。ところが、それではなぜ主に女性がそうした性質を採用しているか、という点については説明できないのである。
 先に述べた、女性が抑圧されているというフェミニズム的説明は不十分である。フェミニズムの前提は、女性を「女性」として絡めとろうとし、女性を「女性」という枠組みにいれて語ることを好む。抑圧に気づかず、従属的な振る舞いに甘んじる女性が許容されているとも言いがたいだろう。たとえそれが、まったく気にしていない人々に冷水を浴びせる行為だったとしても、女性の解放という大義名分のもとに社会や文化を弾圧していく姿勢を打ち出す様子が多々見受けられる(その結果、一部の女性から反感を買っているか、もしくは冷笑的な態度で受けとめられているようである)。女性を解放したいあまりに、女性でありながら「女性」ではないものが存在できなくなっているのではないか。そもそも目に見えるような問題ならまだしも、コミュニケーションの特色(と思われているもの)まで男性や社会によるものだとしてしまえば、女性はもう自分ではどうしようもなくなってしまう[43]。
 もしかしたら、社会的な抑圧への反抗として女性の「同調」や「共感」があるのだという反論もあるのかもしれない。だが、人間のコミュニケーションにおいて欠かすことのできないそれらの要素(もしも同調や共感をまったくもってできない/しない人がいたとすれば、その良し悪しはともかく、それは何らかの人間的必須要素が欠如しているように捉えられるのではないか)をもってして反抗とするという考えは、多くが持ち合わせているものを武器にするということであって、それらを武器にせざるを得ないというのは(人間の要素を特別視しているということであり、同時に特別視しなければならない状況を黙認することにもなり)男性こそ人間であるという前提を採用してしまっているのではないのか。社会的に抑圧されているという前提を強化することにつながらないのか。
 また、自ら主体(と表現することには躊躇せざるを得ないが、たとえ「主体」が幻想であったとしても何らかのかたちで「行為するもの」は残るだろう)を受け渡し、(行動しつつも結果的には)相手が変化するのを待つべしというのは、そこにどれだけ論理的な妥当性があろうともひとを救いはしない。フェミニズムに限った話ではないが、(当然変わるべきものが自分以外のどこかにあるとしても)被害者の語法は、被害者を被害者として位置づける。「抑圧されたわたし」としてものを語る以上、その語法はつねに「抑圧された」主体を繰り返し位置付けていく。抑圧(があるとして、それ)から解放されたいのであれば、その抑圧を前提し強化することをやめるほかないのではないだろうか。
 しかるに、抑圧それそのものは、「同調」や「共感」が要求されるもとにはなり得たとしても、女性がそうであることの適切な説明にはならないように思われる。「女社会」を体現していない人の存在も無視できない。
 女性コミュニティには全体主義性が認められる。なるほど、たしかにそうかもしれない。しかしながら、本稿最大の難点は、その女性がなぜ「同調」と「共感」のコミュニケーションを好むのか、なにが女性を女性たらしめているのか、というところにある。そこで、「女」とはなにかという問いが立ち現れるのである。

5– 2.「らしさ」の付与

 ここで引き合いに出したいのが、近年叫ばれているという男性の女性化、女性の男性化である。キョロ充〔「自分の知り合いや顔見知りがいないかどうか、キョロキョロと常にあたりを見回すような行動が見られ[44]」ひとりで行動できない、群れたがる人種である〕やオトメン〔「オトメンとは、乙女チック(乙女のような趣向)な若い男性のこと[45]」〕という概念は、主に男性を指すものであるが、女性らしさをもった男性ということになろうか、これらは多少なりと女性性を内包し、体現しているとされている。ところで、キョロ充を指す対象には本来、性別の規定はないはずであるが、女性に対して使うことはまずあり得ない。ということは、女性が知人を探し群れたがったとしても不自然ではないという共通認識が社会には存在しているということである。
 こうしたことからわかるのは、おそらくどこかに「女性らしさ」という規定があって、それはある種生物学的なものとは別の次元で機能しているということである。それでは「らしさ」とは何であろうか。同調と共感を好む「女性らしさ」なるものは存在しているのだろうか。
 「らしさ」の付与について、以下の実験結果を参照されたい。

ある実験で、五人の若い母親がベスちゃんという名前の生後六ヶ月の赤ちゃんとおこなう相互行為を観察した。母親たちは、この赤ちゃんにたいしてしきりに微笑みかけ、人形をあてがって遊ばせようとする傾向が見られた。母親たちは、この子を「可愛らしい」、「おとなしい泣き方をする」と判断した。次に、別のグループの母親がアダムくんという名前の同い年の子どもとおこなった相互行為の観察では、顕著な違いが見られた。母親たちは、この赤ちゃんには電車などの「男の子のおもちゃ」を与えて遊ばせようとする傾向が見られた。実際には、このベスちゃんとアダムくんは、同じ子どもで、別々の服をきせられていただけであった。[46]

 この実験はジェンダーの社会化における困難、親が子どもの性別に関係なく対応は同じだと確信していても実際の扱い方にはちがいがみられることを示すものである。だが、こうしたことは親子間だけに起こるものではないだろう。人々は躍起になって性を区別する。これは「男」、これは「女」、あるいは「おとこおんな」かもしれない[47]。
 筆者が身をもって体験したことであるが、「男装」をしたのと「女装」をしたのでは(いずれにしてもこうした表現は不本意であるが)、もしくは匿名での交流を通じて相手を「男性」と認識したのか「女性」と認識したのかによって、人は態度や捉え方を変える(そしてそれは、セックスを知らず固有名で認識していない場合に顕著である)。筆者を「男性」だと思ったひとは筆者から男らしさを見出し、「女性」だと思ったひとは女らしさを見出しているのである。
 ひとは、セックスとジェンダーが一致していると考えがちだ。「しかし、生まれつきわれわれにはひとつのセックスとジェンダーが備わっており、それらは基本的には一致するという観念は間違っている[48]」。

ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また本物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。だがそのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダーは、完全に、根本的に不確かなものとみなしうるのである。[49]

 バトラーによれば、ジェンダーは「反復されるパフォーマンス」としての「行為」である[50]。それ故、「女性らしさ」はそれそのものとして確定的に存在するものではなく、社会的に女性という意味が付与された行為の再演をつうじて眼前にあらわれるものだと考えることができないだろうか。それが何であろうと、人であれば同調や共感をすることもあるだろう。それにも関わらず、そうした要素を「女性らしさ」に押しとどめようとするのは暴力的な振る舞いではないのか。
 しかしながら、事実がどうであれ、人々がそれに付与するという意味において、同調や共感が「女性らしさ」と勘定されることに変わりはない。それが「女性的」であるとか「男性的」であるという枠組みを与えられず存在できる領域は、ほとんどないだろう。
 社会から完全に締め出され、野垂れ死にそうになりながら銀子が発した「そうか。私は見つけてもらえない、承認してもらえないクマなんだ[23]」という言葉は、悲痛なものだ。そのような悲痛さをもってバトラーが「社会のなかで『不可能』で、理解不能で、実現不能で、非現実的で非合法な存在として生きることがどういうことかを分かっていれば[51]」、ジェンダーの可能性の場を開こうとする試みに、何の役に立つのかという問いを発する者はいないだろうと述べるように、「生きたい、生きられるようにしたい、可能なものそれ自体について考え直したい[52]」と願うのは、筆者とて切実なものである。

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[40]安彦麻理絵『だから女はめんどくさい』、KKベストセラーズ、八頁。
[41]同上、九頁。
[42]キャロル・ギリガン『もうひとつの声 男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』、川島書店。
[43]長谷川公一、浜日出夫、藤村正之、町村敬志『社会学』、有斐閣、三八四~五頁。
[44]「キョロ充とは」『はてなキーワード』 <http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E7%A5%ED%BD%BC>(最終更新日 2014/11/3)。
[45]「オトメン」『日本語俗語辞書』<http://zokugo-dict.com/05o/otomen.htm>(最終更新日 2015/6/21)。
[46]アンソニー・ギデンズ『社会学』(第5版)、而立書房(2006年)、一九〇頁。
[47]佐倉智美『性同一性障害の社会学』、現代書館、一〇三~九頁。
[48]「身体と政治──公的領域の可能性──」『生・政治の現在』、一三一頁〔脚注一部略〕。
[49]ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』、青土社、二四八頁。
[50]同上、二四六頁。
[51]ジュディス・バトラー「『ジェンダー・トラブル』序文(1999)」『現代思想』(二〇〇〇年十二月、六六~八三頁)、青土社、六七頁。
[52]同上、七六頁。

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