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4.私はスキをあきらめない

4.私はスキをあきらめない

 そうした全体主義への対抗について、まずは「Zivilcourage(市民的勇気)」を軸に考えたい。「現代ドイツの政治文化を表現する言葉として[34]」定着しているという「Zivilcourage(市民的勇気)」とは、

人間の尊厳や正義といった人間的あるいは民主主義的な諸価値を、物事の公における帰結を考慮することなく、当局や正当なものに対し表明する際の心情[35]

を意味する言葉である。第二次世界大戦中のドイツにおける白バラ、つまり非暴力主義の反ナチ運動などがこれに代表されるのであるが、(一時的な)保身のために「透明」になるのではなく自己の良心にしたがって異議申し立てをするような「勇気」を指しているのだ。

4– 1.透明にならない娘

 『ユリ熊嵐』において、「透明な嵐」に巻き込まれながらも「透明」にはならなかった娘の話をつうじて、「Zivilcourage(市民的勇気)」を確認することができる。

ダメね。やっぱり透明な娘は透明な味しかしない。散々食い散らかしてようやくわかったわ。排除されている個体だけが、本当に美味しいってこと。スキを諦めない娘の肉だけが、ザクロと蜜の味がする。私の餓えを満たしてくれる。泉乃純花[20]、あなたはとても美味しかった。もうすぐ。透明な嵐が、もうすぐ来る。あぁ、待ち遠しい。[22]

 これは、あるクマの言葉である。泉乃純花は、「排除の儀」により「悪」と認定され排除されそうになった「友だち」である椿輝紅羽〔主人公〕を救おうと、自分に投票した。裏切り者になることで、自ら「透明な嵐」に飛び込んだのである。それでも、泉乃純花は「透明」にはならなかった。何故か。それは、スキをあきらめなかったからである。泉乃純花は椿輝紅羽へのスキを諦めなかった。
 泉乃純花の行為は、「Zivilcourage(市民的勇気)」の賜物であろう。映画『白バラの祈り』でゾフィー・ショルが死刑に処されたように、『ユリ熊嵐』でも泉乃純花はクマに食われ死したが、全体主義の運動に加わることなく、むしろそれに疑問を呈すかたちで己の信念を突き通した。
 むろん、全体主義的なコミュニティでそこに異を唱えれば排除の対象になることが推測される。けれども、内側から声をあげることをしなければ、それは永遠にやむことのない嵐のごとく、誰かがすり減って消えてしまうまで運動をやめないだろう。

4– 2.孤独にたいするこたえ

 「あなたは大勢のなかから私をみつけてくれた。私はもう、透明な嵐に翻弄される弱い存在じゃない。排除されない大切なものになった[23]」という言葉にあらわされるように、あるいは、これまで本稿で検証してきた「女社会」をつくる人々に共通してみられるように、全体主義に加担しがちな人間は、孤独である。ひとりでいるのが苦手で、集団で同じように振る舞えなければ、安心できない。
 フロムは自由を分析し、「個人の孤独と無力の感情[36]」に堪えられない一般人は自由から逃走すると述べた。『正気の社会』でも触れられているが[37]、そうした人間の実存の問題へのこたえとして、孤立の克服としての「愛」について考察したい。

共棲的な結合とはおよそ対照的に、成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる。[38]

 なぜいまここで「愛」について言及したのかと思われるかもしれないが、ここでいう「愛」とは性愛のことでも恋愛のことでもない。あらゆる愛に共通する基本要素として、フロムは「配慮、責任、尊重、知[39]」をあげているのであるが、「愛」すなわち人間的な成熟によって孤独を克服した個人が全体への従属を選択しないこともさることながら、こうした態度は「Zivilcourage(市民的勇気)」につながるのではないだろうか。大切なひとに、同じコミュニティのひとに、同じ国のひとに、同じ世界のひとに、配慮と責任と尊重と知をもって接することができなければ、内部からの告発、つまり「おかしな」ことに「おかしい」と言うことはできないのではないのか。注意しなければならないが、ここで強調すべきは、フロムが示した「愛」ではなく、「愛」の基本要素である。全体主義をやり過ごそうとする無責任な態度は、まさに全体主義に加担していると言わざるを得ない。

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[34]柳原初樹「ドイツ「基本法」(Grundgesetz)における民主主義擁護のための闘争的性格(H. Yanagihara)[J]」『日本独文学会』<http://www.jgg.jp/modules/kolumne/details.php?bid=64&cid=8#latterhalf64>(投稿日 2009/11/4)。
[35]「Zivilcourage」『Duden Deutsches Universalwörterbuch』(6.Auflage)〔脚注一部略〕。
[20]泉乃純花は、主人公(椿輝紅羽)の「友だち」であり、クマに食い殺された女の子である。
[22]『ユリ熊嵐』(EPISODE 2「このみが尽きても許さない」)。
[23]同上(EPISODE 7「私が忘れたあの娘」)。
[36]エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』、東京創元社、一五〇頁。
[37]エーリッヒ・フロム『正気の社会』、社会思想社、二三一~二頁。
[38]エーリッヒ・フロム『愛するということ』、紀伊国屋書店、四〇~一頁。
[39]同上、四八頁。

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