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おばけ餃子はオフライン

足先がつめたくて、ここ数日は夜中になんども目がさめる。ねむりの間でそれぞれ断続的な夢をみるために、起きるべき時間が来るころにはぐったりと疲れてしまっている。きのうは焼きたての巨大おばけ餃子を賭けて謎の覆面ライダーと一騎討ちの対決をするという、男子小学生みたいな夢をみた。ばかばかしくて起きてすぐ笑ったが、その声はだれにも聞かれていないのでほんとうにわたしが笑っていたかどうかはわからない。

日記をまいにちつけると決めてから50日があっさりと過ぎた。まいにちつける代わりにほんとうのことを書くこと、そしてそれをかならず500字以内に収めると決めていて、おそらくはそのルールが継続の条件になっている気がする。わたしの書くものは冗長であればあるほど他人の目を意識して作為的になりがちだ。たとえば今みたいに。

会話においてもたぶんそうで、長くしゃべろうとすればするほどいつの間にか「話すことそれ自体」に主題がすり替わってしまう。言葉のほうが先行してどんどん勝手に駆けていって、思っていることとはまったくべつの単語のリレーがじつになめらかに連なって他人を傷つけたり退屈にさせたりがっかりさせたりする。そういうふうに感じてしまう。しゃべるのがすきで得意なほうかと思っていた時期もあったが、まったくそんなことはなかった。

でたらめな検問をする交差点が頭のなかにあって、聞いてほしいことは通行止めにしたままで、言わなくてもよいことばかりがすいすいと横を通過していく。そのおそろしさに気がついてからは、すきな人の前ではあまり口をきかないようにしている。だからわたしがすきになった人は永遠にわたしのことを理解できないままだ。学生のころ「なにを考えているのかわからない」という理由でふられたことがある。

これはかなしむべきことなのだろうか?

雨がなにかにぶつかってときどき鳴る、ぶんとかぼよんとかいう音がすきだ。部屋で雨音をたのしみたいという理由で外出をしない。音楽は聴かないし本も読まないし映画もみない。ただわたしのかたちにやわらかくなじんだベッドの上で過ごして、だれとも接続しないでつまらないことばかり考えている。英気を養っているとか、ひまだからそうしているというのではなくて、なにもかも放棄しないと気が済まないからそうしている。ひまという感覚は、じぶんの個人的な生活においてはあまりよくわからない(便宜上、ひまだとは口にするが)。すべきことや、したいことはほんとうは無限にある。

足先だけがつめたいので、中途半端に出したタオルケットに両脚を突っ込む。体温があがればまたねむくなるのだろうけれど、気になる夢のつづきをみることはもう二度とできない。連載途中で打ち切りになってしまった漫画みたいに、けっきょくどちらが勝ったか曖昧で、おばけ餃子のゆくえも、覆面ライダーの正体もわからないまま忘れて、またあたらしい夢をみる。



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