相互対人コミュニケーションの副作用 安心社会か信頼社会か

対人コミュニケーションについてあれこれ考えている。というより、考えさせられていると言ったほうが正確かもしれない。というのは、ここ最近、対人間において苦い思いをさせられた。まあ、自分が一方的に被害者なわけではないのだけど。一般的には、他者と協調性を保つとかより親和性をもってコミュニケーションをとるというのが社会における規範とされている。一方では、現在特によく聞く「ソーシャル・ディスタンス」という言葉にあるように、他者との距離感も重要であることは誰もが認めるところである。

今回、僕が被ったことについて少し触れておくと、それは他者を信頼してどこまで自分のことを話すかということ。自己開示や返報性とも関連してくるが、自分にとっては「まさかこのようなことは秘密にしてくれるだろう」という基準は、実はあいまいであること。具体的には、僕は今回、他者の言動に不満なところがあって、同じ所属の人にそのことを話したことがあった。自分としては、そのようなことはわざわざ秘密にしてねというまでもなく、デリケートな内容だから心にしまっておいてくれるものと思い込んでしまった。それが実は、その内容を僕が話した相手が本人に話してしまった。当然、その本人は怒って僕にクレームを向けてきた。

今回のことは、自分の他者の見込み違いが原因であるし、ポジティブなことならまだしもネガティブなことに対して信頼関係を構築できていない人に話してしまったことが原因でもある。それでも、どこかにもやもやしたものが残る。それは他者との相互作用において信頼関係が重要なのは言うまでもないことなのだが、その信頼とはどういうものなのだろうか。その前に、「絆」とか「つながり」という言葉を聞く。それらは信頼関係が構築できているからこその「絆」であったり「つながり」であったりするのではないだろうか。そもそも、他人をどこまで信用、信頼するのかという根源的なテーマも残る。

日本は集団主義的だと言われる。一方、欧米では個人主義だと言われる。なんとなくだが納得できる部分もある。しかしながらこの「集団主義」や「個人主義」の意味というのはあまりわからない。以前に読んだ本でそのことについての記述があった。そこには、日本はもともと集団主義であったと書かれていた。詳しくは、日本はかつて農耕作業を地域でお互いに協力してやっていた。そのコミュニティでは隣の人がどのような人でどんなことをやっている人なのかがお互いにわかる環境であった。そのため、そのコミュニティの中の一人が、その環境で不利益な行為をするとたちまち皆に知れてしまう。だからそのような閉鎖的なコミュニティだと、その環境においての不利益なふるまいを取りづらくなってしまう。そのようなある意味、監視的な閉塞的な環境でおたがいの利益を共有するというのが集団主義であるということだった。だから、そのようなコミュニティだと、外来の人に対しては排他的な態度をとることが多く、その環境外との接点を取りづらくなるという側面もある。しかしながらそのような排他的で閉鎖的な監視社会では、その環境でなら協調的な態度でいれば、利益を享受できるということである。

一方、個人主義的なコミュニティというのは、その環境での他者がどのような人で何をしている人なのかをほとんど知らない社会である。もちろん、その環境での構成員という概念もなく、個人がそれぞれの活動をしていてそれらには余程のことがない限り、お互いに干渉しないという社会である。そのような社会では、お互いに干渉しない代わりに、どこまで他者を信頼すればいいのかという問題が生じてくる。集団主義的な社会では、お互いの利益を享受しているわけだから裏切りのようなことがあった場合、当然その報いを受けることになる。しかし個人主義的な社会においてはお互いの利益を享受するということがほとんどないため、どのようなことで裏切りなどの不利益を被るかわからないという特徴がある。そのため、お互いが疑心暗鬼になり、ますます不干渉になるという悪循環に陥ることも予想される。

そのようなことで、集団主義と個人主義のそれぞれについて考えてみたわけだが、これを読んだ人それぞれが自分は個人主義的な社会が合っているとか、自分は集団主義的社会のほうが心地いいかもしれないという感想をもたれたかもしれない。もちろん、それぞれの適性みたいなものがあるからどちらがいいとか悪いとかはない。しかしながら、個人主義的な社会にはあって集団主義的な社会にはないものがある。それは、まさしく「信頼」である。集団主義的社会では、閉鎖的な環境でお互いの行動をある意味監視することで不利益を被るかもしれない行為者を監視する社会である。そのため、そのような行為に及ぶ人はすぐに特定され、その環境に属せなくなってしまう。そのような意味で、集団主義的社会では「安心」であるということが言えるだろう。いわば集団主義的社会は「安心社会」であると。

一方で個人主義的社会では、お互いがどんな人なのかほとんどわからない社会なので、どこの誰が自分にとっての「味方」なのかそれとも自分に何かしらの不利益を与える人なのかをうかがい知ることが困難な社会である。しかし、現在の日本は、むしろこの個人主義的な社会に変わろうとする過渡期であるという。そのような一見、個人主義的な社会の良い面というのがあまり見出せないことから、やっぱり集団主義的社会のほうがいいのではないかという見方もあると思う。それでもやはり、個人主義的社会のほうが現在に生きる私たちにとってはいいと僕は思う。それは「コミットメント」と「社会的知性」という概念が関係してくる。コミットメントというのは他者とのかかわりをどれだけ持とうとするかということで、どれだけ知らない他者と関係を持つかということ。そこでは、ある特定の人とだけ関係性をもつのではなく多くの人ととの出会いによって、今後の自分の可能性を拡げるという意図が存在する。しかしながら、多くの人ととの出会いで必ずしも自分にとって友好的な人ばかりではない。その中にはあからさまに攻撃をしかけてくる人もいるかもしれない。さらに、表象的には友好的な態度をとりながら陰では自分を貶めるような言動をとっている人もいるかもしれない。それでも、個人主義的なオープンな社会ではそれらを心配していれば自分の本来の目的を果たせなくなってしまう。そこで重要になってくるのがもう一つの「社会的知性」である。

これはいわば、相手が自分にとっての協力者なのかそれとも何かしらの不利益を被る相手なのかを見極める能力というか資質というか、というようなこと。すなわち、より多くの人と出会う中で、他者とのコミットメント関係を重ねる中で他者を見極める知性を育むことが必要になってくるのが個人主義的社会である。今回の僕の一件では、僕は相手を信頼に足る人だと認識して、ある意味デリケートな自分の内面の部分を伝えた。僕はより多くの他者とのコミットメント関係を構築していきたい。その中で他者を見極める社会的知性をある程度は自分に備わっていると思っていた。しかしそれは過信であった。今回の件では僕は他者を信頼して自分の思いを伝えたわけだが、見事に裏切られてしまった。確かにかなりの痛手を負ってしまった。非常に辛い思いをしてしまったことも事実である。しかしながら、今回の一件で得たこともある。それはひとつは、やはり自分は個人主義的な社会が合っているという点。もう一つは他者を信頼して結果的に痛手を負ってしまったが、しかしそのおかげで改めて社会的知性の重要性を再認識できた。当然、そう簡単に他人を信頼するなという集団主義的な思考が頭をよぎるのも事実。それでも、そう簡単に他者を信頼しない中で、そのようなことでその相手は自分にとっての信頼に足る人なのかを見極める能力を、経験の中で養っていくことが重要だと思う。

最後に、「人を見たら泥棒と思え」と「渡る世間に鬼はなし」という言葉がある。まさにこれは前者は集団主義的なことで、後者は「渡る世間に鬼はなし」という考えでいることで、実際に「鬼」と出会うかもしれないし、その「鬼」から不利益を被るかもしれないリスクもある個人主義的社会である。しかしながらそのような社会で生きていく中で、どのようにしたら自分は自分らしくいられるのかという目的をもつことができる。社会にはいろんな人がいて当然だし、さまざまなことが起こる。それを怖がっていれば何もできないし何も目的を果たすことができない。そのような社会でもいかに自分らしく生きていけるかは、社会的知性をいかにして備えるかが非常に重要になってくると改めて考えさせられた。かなり前に読んだ本だが、自分にとってある意味この混沌とした社会で生きていくために必須の教科書であると思い知らされた。

参考文献
山岸俊男
『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』
中央公論新社



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