「啓蒙なきモダニティ」にみる世界
今日は久方ぶりにいいスーツを着ていつものカフェに行った。店員さんも思ったことだろう。こいつやっと働く気になったのかと。
---
1. 人文分野は不要なのだろうか?
僕は非常に限られた数人の人間を人生の指針としてここまで生きてきた。ただ、そのなかの某人が先日「今の哲学者は過去の偉人を研究するばかりで、最新の自然科学に基づく社会を説明できはしない」と哲学を斬り棄てていった。これは根深い問題だと思う。自然科学の発展で生活が豊かで安全なものになったことは疑いようもないし、言いたいことは痛いほどわかるものの、両方が好きな僕としては、まだ態度を決めかねている。(ただ、彼は決して人文一般を否定しているわけではなく、人間については哲学ではなく史学をベースに考えればよいとしている。歴史は繰り返す)
僕が「精神的老害」と呼びながら度々引用するマルクス・ガブリエルという男の本を例によってまた読んでいる。この本『マルクス・ガブリエル 危機の時代を語る』はおもしろい。唯一残念なことがあるとすれば、「コロナ後の緊急インタビューも収録!」とかいうどうでもいい言葉がくっついており、コロナ本みたいな扱いになっていることだと思う。
マルクス・ガブリエルは、最終的な主張だけを表面的に眺めるとある種保守的で陰謀論くさいところがある。これは彼の近年の著作の多くがなぜかインタビューや対談形式であることにより、その論拠が端折られているからなのかもしれない。すると、彼の主張は単に現状維持バイアスがかかっているだけのようにも読めてしまう。
2. ちょっと哲学のこと
彼あるいは多くの哲学者に対する違和感は、ひとつには自身の誕生以前から存在する技術は所与の「自然」としながらも、誕生以降に現れた技術に基づく変化は人為的な「非自然」として否定するような、何かそういう矛盾めいたものだと思う。落合陽一がいうところの「計算機的自然」にも近いところで、世の中一般の人はエアコンがどういうメカニズムで動いているのかを意識してはいないし、電気代を払ってボタンを押せばあとは勝手に部屋が涼しくなるなにかよくわからない塊でしかない。だから「もっと理系に行くべきだ!」とか言われるわけだが、現実には文系がもっと自然科学も学ぶべきだという方が正しいように思う。
彼は本の中で【「近代」の解釈の根本的な間違いは、自然科学や技術の進歩が人間や道徳の進歩にも重なるという想定】であると述べている。これは、自然の理解や技術の向上は、それら単一では人間の進歩には決して繋がらないことを意味する。
事実テックにおいても、これまでに「適切な道具さえ与えれば人間はそれを正しく使いより良い社会を構築するだろう」という信念はことごとく打ち破られてきた。
そういった”失敗”に学んだのか、近年テックは(ゼロトラストという言葉をまさにその代表として)、ある種の性悪説に基づき構築されることが増えてきたし、ブロックチェーンのような非中央集権的な技術の背景には政治不信などの要因も(少なからず)ある。
それは僕からすると、人間の道徳などに対する教育コストを払うのではなく、どんな人間が使おうと悪用できないような(あるいは最終的には自分が損するような)「仕組み」の構築を志向しているようにみえる。ただ、それに関しては少し気になるところもある。
3. 弱いロボットと啓蒙
サイバー独裁自体もそうなんだけど、その前にまず啓蒙というのが大きい。たとえば、ゴミ拾いロボットが街のゴミを片っ端から拾ってくれるようになると、「どうせロボットが拾ってくれるんだから」と人々はこれまで以上にポイ捨てをするようになる。これまでは(特に我が家の周辺では)朝早くからシルバー人材センターの方々がゴミ拾いをされていて、そういう姿を見ていたらポイ捨てなどできるはずもないが、ロボットがやっていたら話は別かもしれない。啓蒙とはそういうものだと思う。
ぼくがもう5年以上もデータサイエンスの授業で頻繁に紹介し続けている豊橋科学技術大学ICD-Labの弱いロボットは、それ自体では十分な能力を果たさないが、一方で人々を倫理ベースで動かす能力を持っている。小さくてかわいい存在が困っていたら助けてあげたくなる、その気持ちを逆手に取ったテックで、ぼくは大好きなんですよね。
4. 啓蒙なきモダニティ
話を戻すと、技術ベースでテックの能力のみをどんどん上げていくというのは、これはまさにマルクス・ガブリエルが言うところの「啓蒙なきモダニティ」であり、彼の「啓蒙なきモダニティというのは必然的にサイバー独裁に向かう」という主張へも自然につながっていくのではないかというのが僕の中での一つの懸念となっている。
たとえばブロックチェーンが為政者の意思とは無関係に自律的に動き続けることは、もしかすると"見えざる手"になりうるのかもしれない。しかし、それを為すのが本当にブロックチェーンであるべきなかは立ち止まって考えた方がいい。いまそれができるかもしれない技術がブロックチェーンしかないだけなのかもしれない。つまり、あれが世界を支えられるほど完全なのかというのは多いに疑問だし、仮にシステムがそうやって勝手に動いているとはいっても、実際それを一般人が利用するためには、たとえば端末(terminal)としてのデバイスや、その上で走るアプリケーション、それをブロックチェーンに接続するためのネットワークなど、常にどこかの国の何かの企業に身を任せる必要がある。結局国の規制や企業の意向に左右されることに変わりはない。そこにおいて権力は本当に分散されているだろうか?仮想通貨のハードフォークだって結局誰か(一個人ではないが)の意思決定のもとにあるはずで、あれが世界経済を支えるとすれば、それを握るのはテックの人々でいいのだろうか?
それは結局、ガブリエルのいう「サイバー独裁」に終わるだけかもしれない。
僕もテックの人なのにこんなことばかり考えている。
ちなみに彼は「新実存主義」を説くにあたり、「哲学の祖先」が説いたビジョンは「私たちが過去何百年の間に目の当たりにしてきた技術的な転換や知識の習得を考慮に入れていない」ことをもって失敗すると論じており、そういう意味では必ずしも古典のみに縋っているとも言い切れないとは思う。まあ彼が個々の技術をちゃんと理解した上での言葉だとは全く思わないけど。
彼の言葉をベースにこうやって考えを整理していくと、哲学が不要だとはあながち言い切れない。ただ、哲学が不要だと言われるのは、ひとつには哲学者が仰々しく言語化するような事象の関係なんていうものは、頭のいい人たちにとってはそれまでの経験から肌感覚で理解できることだったりするからなのかもしれない。つまり、自力で感じ取れる者にとって哲学的な言語化は不要で、感じ取れない者にとってはたとえ言語化されても理解できない、という話になってくるのかもしれない。残酷な話だと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?