池田亮司から生成アートを考える
青森に行ってきた。どうしてもみたかったRyoji Ikeda (池田亮司) の国内13年ぶりの展示『池田亮司展』が弘前れんが倉庫美術館で行われていたため。全体的に人は少なくてびっくりしたけど(そのしばらく後に渋谷WWW Xで行われたライブはパンパンだったので)、芸大とかの学生さんなのかな?というような連れだった人々も多少いた。
池田亮司は1000 Fragmentsあたりをはじめとして、楽曲を聴くと彼が隠し持つ何かしらの緻密な考えに従って音を配置した結果としての「意図的に無意味が構成されている」という印象がずっとあった。この考えに呑まれると、「ある音がここに配置されているのは一体なぜなのか」という"配置の必然性の問題"にぶつかることになる。それは作品の"裏"を過剰に考察することにつながるという意味で危険なことだと思う。
しかしながら、公開されている一連の「池田亮司展 オープニングトーク」を読むと、このあたりの作品はどうも「データ」に基づいて生成されていることがわかる。ここから、芸術に限らず統計解析まで含めて、「データに基づく出力」という話につなげたい。
議論に先立って、そういったデータの入力の果てに作品が出力されるような芸術を、ここでは仮にData-based Arts (DAs)と呼ぶことにする。また、生成音楽をはじめとして、こういった類のものは世間では生成的(generative)と呼ばれることが多いが、ここではそういった生成的な芸術をGenerative Arts (GAs)と呼ぶことにする。そしてデータサイエンスの身として、生成的と聞くと、具体的なデータに基づくというより、その生成過程としてたとえばある確率分布を仮定して、その分布から乱数として吐き出されたデータが作品を織りなすような---データの形だけが決まっていて実際の中身は全く未知であるような---印象を持ってしまう。
1. データの役割としての客観性
先のトークによれば、彼は欧州原子核研究機構(CERN)での観測データなど、何かしらの観測や実験の結果をインスタレーションの生成のためのデータとして使用していると述べている。特に、星の動き方などの「すでに観測され不変な事実」を静的データと呼び、それを用いることを好んでいる。
いきなり結論からいうと、DAsの作成にあたって彼がやっていることは次の2つ
・データの選択
・データと視覚を関係づける関数の設計
に集約できるように思う。
ここで関数とは、わかりやすいところでは y = f(x):データxを関数fに通すと出力yが出てくるという関係性であり、ここでは「データを入れるとアートが出てくるアルゴリズム」のようなイメージ。統計学でいうところの回帰モデルの構築 = 原因と結果の関係性の記述、もっと近づけるとすれば情報学的な意味での機械学習 = ブラックボックス的な現象間の結合 = 何かを入れたら何かが出てくること にかなり近い。
一般的な意味で、データや数値を用いることの主たるモチベーションとは「客観的であろうとすること」である。そして「客観的である」とは、分析や生成の過程から主観性や恣意性を取り除くことである。つまるところ、データを用いるというのは、自分の意思でコントロール可能な領域を制限することと同義である。さらに別の言い方をするなら、静的データに基づいて結果を出力するというのは、決定論的というか、すでに結果のほとんどは決まっていて、行為者には変える余地がないということでもある。
ここで人間の意思として残されている余地は、
・どんなデータを用いるか
・どんな関数でデータを表現するか
の2点、先の池田がやっているのではないかと述べたまさにその2つに限られる。
すなわちDAsにおいては、人間が自由に要素を配置することと比べるとその恣意性が大幅に目減りする。データサイエンスにおける(ぼく自身あまり好んで使う言葉ではないのだけれども)"エビデンス"の役割とほぼ同じ。データを元にする限り、思考の順序は「ここにこれを置こう」ではなく「このデータではここに置かれる」になる。
極端な言い方をするなら、いったん上の2点、使用データとその表現方法さえ決まってしまえば、表現者側にはそれ以上の意思を込める余地はない。それは、データを使った瞬間に表現者は配置の必然性の説明責任から解放されることを意味する。その出力はあくまで"そういうデータ"に則って配置されているに過ぎず、気に入らなければ違う静的データを使えばいいだけだ(まあ本当は関数側をいじることもできるんだけど)。
2. データと行為者の関係性
ここで、データについての疑問が浮かぶ人もいるかもしれない。出てきたものが気に入らないならデータを書き換えればいいんじゃないの、あるいは、自分で自由にデータ自体を作ればいいんじゃないの、と。しかし、それは完全に、完ッ全に間違っている。データに基づいた出力において(それが芸術だろうが統計解析だろうが安全工学だろうが)、データを書き換えることは絶対に許容されない。池田自身も静的データを「普遍的な事実」と認識して作品に組み込んでいる以上は、(出力されたDAsに元の普遍的な事実を汲み取れるような解釈性が付与されているかどうかとは全く無関係に)データの客観性あるいは普遍性は常に維持されるべきなわけです。
たとえば、自分の感性に従ってメロディを入力したらAIが伴奏をつけて1曲完成できた、といわれてもそれはデータの入力でもなければDAsともいえない。それこそまさに自分自身の意思を生成過程とした入力であり、つまりは単なる「ツールとしてのAIを活用した作曲」と呼ぶ方が実態に近い。
これは僕らのようなデータサイエンスに身を捧げる人間にとっても全く同じことがいえる。僕は、データとはあくまで実験や観測の結果が記録されたものだと理解している。そしてそれは暗黙的な(かつ非常に強固な)「データの生成過程は分析者から切り離されていなければいけない」という仮定に基づいている。実験や調査の結果としてのデータを歪める(=生成過程に行為者が介入する)のはご法度だし、それに基づいて吐き出された分析結果が意図せざるものだったとしてもどうしようもないのだ。確率分布なんていうのは行為者が介入できない生成過程の最たるものだし、そう考えるとDAsとGAsの関係が見えてくるような気がする。
DAsにせよデータサイエンスにせよ、データを以って何かしらの行為 (作品制作, 構造推定, 仮説検定, 将来予測...) を行う以上、行為者がデータに介在できるべきではなく、あくまで複数のデータの集合から選択できること、そしてせいぜい関数の選択に留めなければならない。さもなくば、データの自由な入力がそれ自体をもって恣意の塊と化してしまう。っていうかもっというと、今のデータサイエンスでは関数の選択からも恣意性を取り除くことが求められているわけで、自分の"お気持ち"だけで手法を選ぶわけにはいかない。
3. データの"結果"としてのアート
コンピュータ資源さえあれば無限に生成できうるGAsにおいては、データの選択や関数設計も芸術として評価されるべきであるということは当然のことだと思う。それは一般のデータサイエンス研究において、データの収集方法や分析モデルの開発が研究として評価されるのと全く同じである。
ではここで、もし僕がこの展示にあるものを"非常に表面的に"トレースしてPythonで作り直したらどういう扱いを受けるべきかという問題を書き残しておきたい。もしかしたら僕が作ったそれらしいものに対しても、池田亮司好きの人たちは喜んでくれるかもしれない。そこで「大半の人は池田亮司展をわあすごいぐらいのノリで見ている」などと彼ら彼女らを謗ることは簡単だが、とはいえ彼ら彼女らに、選択されたデータや関数内部が公開されない状態で、表面的な出力のみからその構造を推定し、芸術性を評価せよというのはあまりにも酷である。あるいは、美しいデータと美しい関数を用いているにもかかわらず、出力に「わあすごい」とならない場合もある。そうなると、我々はDAsの最終的な出力 = 観測値 = それもまた非常に表面的な"結果"でしかない に対してどこまで意義を見出すべきなのであろうか。
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