抑圧の奥を垣間見るとき
僕は明らかに変な髪型をしていることもあり、通りすがりの人に笑われたり怖がられたりすることがよくある。だがそれはあくまで自分の意思でやっていることなので今回はいい(まあ、自由意志による選択の結果であれば他人から笑われても仕方がないのかということ自体また別に議論すべき重大な問いではあるのだが)。
それとは別に、僕には常々思っていることがある。
僕のこの格好は、ほとんど何の抑圧も受けていない自然な状態であり、言い換えると、常識や他者に配慮しない僕にとっての一番好き勝手な状態が今だということになる。変な見た目で変なブログを15年も続け、変なゼミと変な音楽をやっているのが僕の全てなのだ。つまり、僕の"変さ"にこれ以上はない(ただ、本当は髪を編み込みたい)。
同様に、友達の非常に少ない僕にとって数少ない仲のいい同級生にして会社をいくつも並行して走らせている友人は、社員の生活を守るためにも日々のビジネスには本気だが(普段ふざけ続けている彼でも、ふと見せる本気の表情の瞬間に「社員を路頭に迷わせるわけにはいかない」などと言うことがある)、そんな彼も日常の事務仕事では「暑い」というただそれだけの理由で上半身裸で働いている時がある。セクシャルハラスメントとは一体何だったのかという感じだしそもそも単純に馬鹿すぎるのだが、彼からみたら僕の髪型が馬鹿すぎることは疑いようもない。
一方で、自分の服装その他を(たとえば職務規定のような)"ルール"により日常的に抑圧されている人たちはどうだろうか。清潔感のある短髪に綺麗なスーツと磨かれた革靴で、人間的にはかなりまともに見える。いかにもビジネス現場で活躍していそうだし、優しくて良い人っぽい感じもする。しかし、僕はそこにこそ何か得体の知れないおぞましさみたいなものがあるような気がしてならない。まあそもそも「ちゃんとした社会人」への破滅的なコンプレックスがあるのは否めないけど、それ以上になんか怖い。
正直なところ、その表面上の清潔感が多かれ少なかれ中身のグロテスクさを押さえ込み覆い隠していることは否定できないと思う。もちろん、それこそがまさに"ルール"の役割としての抑圧であるのだから当たり前なんだけど、なにかの拍子にそれが剥がれたとき、なかから出てくるものの恐ろしさの程度を外面から予測することはできない。僕はそこに、なにかとんでもなく恐ろしいものが封じ込められている壺のような、そういうおぞましさを感じてならない。
そこには、外からみると不思議な魅力があっていつか入ってみたいとは思うけど、磨りガラスになっていて決してなかの様子はわからない昔ながらの喫茶店なんかと同じ種類の"未知"が滲み出ている。俺はそれがとにかくこわい。何しろ中身が見えないのだから。ゼミ生が言っていた、「爽やかな見た目のやつに限って実はやばかったりする」みたいな発言にも通ずるところがある。まあなにがどうヤバいのかは知らないが、とりあえずこいつらは大丈夫そうだ。そう、大丈夫じゃないのはいつだって俺なのだ。
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