それはそれ

僕は煙草を吸ええない

 タイトルは地元の言葉で「煙草を吸うことができない」という意味である。慣れていないこともあるのだろうが、むせる。私の祖父は喫煙者であったし就職先でも喫煙者が多かったので、煙自体はよく吸っていたし個人的には毛嫌いするほどでもない。しかし、私個人は煙草の煙の味を特に美味しいとも思わないしリラックス効果も感じたことが無い。故に、日常的習慣的には喫煙していない。

 煙草というものがどのように人類とかかわって、乾燥させた葉を燃やして煙を吸うようになったのかなどということはめんどくさいので書かない。というか詳しく知らない。ご興味のあるかた、お詳しい方はぜひ記事を書いてnoteに投稿していただきたい。私も暇があれば見るかもしれないし、他にも興味を持つかたがいらっしゃるかもしれない。

 かつて、私の体験した最も古い日本では煙草は「禁煙と書かれていない場所ならばどこでも自由に吸っていい」ものであった。病院の待合室でも電車の中でも。それ以前といえば宮崎駿監督2013年のアニメ映画「風立ちぬ」で、結核を患って寝ている奥さんの手を握りながら喫煙する主人公の姿に日本禁煙学会が要望書を提出したこともある。映画の舞台は1930年代後半から40年代前半といったところだろうか。もっと前ならば「禁煙」とされる場所すらなかっただろう。

 その後、喫煙による害が広く世に知られるようになり、それによってか喫煙したくないという人が増えていった。人口に占める割合が減少した喫煙者の皆さんは肩身の狭い思いをし続けていて、見ていて少々気の毒にも思えてしまう。これは別に全てが当人、現在喫煙者である皆さんのせいばかりではないだろうと思うからだ。

 煙草や喫煙に関する規制が進んでいるのは、現在そういった喫煙禁煙に関する制度や法律を決めたり考えたりする立場になった皆さんが、現在よりもむしろかつての喫煙者たちのタバコのポイ捨てなど、当人たちには悪意すらなかった「悪行」の記憶もあってか「規制も止む無し」と考えているのではないだろうか。しわ寄せはいつも後に来る。

 煙草を吸うことも権利、吸いたくないと思うことも権利。まさかお互い殺しあって反対派を皆殺しにするわけにもいかないのだから、そのすり合わせを考えていかねばならないのだろう。「ここまでは譲ってもいい、しかしここは譲れない」と主張する権利は誰もが持っている。どちらにしろ、一方的に決めるものではないのだと思う。

 煙草と並ぶか、それ以上に問題になるものといえばお酒、飲酒に関する事柄である。しかし今回の主題と外れるので、飲みたくない人に飲ませる酒があったら私のところに持って来てほしい、という主張はまたの機会にする。

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