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朔風

掌編小説

 北の部屋から冬の匂いがした。冬はどうやら北の部屋からやってくるらしい。新しく見つけたアパートは三間で、居間と寝室に充てると、一部屋が空いた。この部屋は、朝は東の窓から陽が入るのだが、午後からはどの部屋よりも寒々としていた。
 確か五歳の時であった。雨音を聞きながら、縁側に寝転んで、カーテンレースの鉛玉を取り出して遊んでいる時であった。雨宿りにでも来たのだろうか、踏み石の向こうで雉虎きじとら猫がこちらの様子を伺っていた。居間には祖母が居たが、座敷を通って居間に沿った廊下に出れば、勝手へ回ることができる。祖母が気づかないようにり硝子の向こうを這いながら廊下を通った。丁度母は買物に出ていて勝手には居なかった。引違い戸をそっと開けて煮干しを二三つかむと、縁側へ戻ってほうった。猫はかりかりと小気味良い音を立てて瞬く間に平らげると、更に要求するようににゃあにゃあ鳴いた。撫でようと手を伸ばすと前栽せんざいの隙へさっと逃げて行った。母が帰って来るなり、猫が欲しいとねだったが、母が猫アレルギーだか祖母が猫嫌いだかの理由で決して聞き入れられることはなかった。その後も度々猫へ煮干しをやったが、そのうち家に寄り付き始めた猫を不審がった母によって、その行為は叶わなくなった。以来、猫が忘れられず、度々母にねだったが、何時も何らかの理由をつけられ反駁され、猫への憧憬の念は深まるばかりであった。
 家を出てすぐに猫を飼うことは叶わなかったが、何時いつかはと思い、猫専用の部屋にするために一室を空けておくことにした。何時しかそこには、猫のための不浄や移動用ケースや爪研ぎや玩具やらが溜まっていったが、肝心の猫を迎える機会は一向にやってこなかった。しかし一方で、幾つも台座の付いた昇り降りできる柱や、胸の高さほどもある回し車等も増えていった。
 今朝は頼んでいた猫ちぐらが届いた。主の居ない猫部屋へ行くと、もうそれを置けそうな場所は残っていなかった。場所を空けようと不浄を持ち上げると、それに付いていた埃が落ちて転がった。その部屋に置くのをあきらめる代わりに窓を開けると、猫ちぐらを持って居間へ向かった。居間の扉を開けると、先程の猫部屋から冷たい風がさあっと走った。居間にも冬がやって来るのはそう遠くないだろう。

<了>

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