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一日一善

僕は今月から【一日一善】を心掛けて生活している。と言っても、僕が行う【善】は非常に小さいものだ。
例えば、トイレ掃除をする。ゴミ捨てを積極的にする。掃除機をかけて部屋掃除をする、等だ。テーマは「他人のために何か行動する」。もしかしたら「え?それだけ?」と思われるかもしれないが、そういう小さな小さな心掛けを毎日行うと決めて今月を過ごしている最中なのである。そして、何を行ったのかを記録している。ただ、もう既に4日間程すっかり忘れて何もしない1日を過ごしたりしているのが現状だ。それも毎日記録。何もしなかった日には「正直、一日一善行動をすっかり忘れた男は愚の骨頂だ」と自分でコメントしている。
前述の通りテーマは「他人のために何か行動をする」。当たり前だが毎日「何か」しなきゃいけないのだ。でも実は「何か」は結構な強敵である。それはこの「何か」が非常に抽象的表現であるため、変な話「毎日トイレ掃除」でもこの課題をクリアしてしまうわけだ。つまり毎日のお風呂(ユニットバス)に入る最中で掃除をすればこんなつまらない行動は終わるわけだ。(でも、それは毎日トイレ掃除というまた違うテーマになってしまう。と思うのが僕のつまらないこだわりだ)
ただ、このような小さな課題を自分に課して、毎日過ごしていると凄く不思議なことを思う。それは、「他人のために動いているはずが、結局、自分のために動いている」という感触になる。
例えば、僕はシェアハウスに住んでいるため、他のシェアメイトが洗わずに放置したフライパンを洗い、キレイにしても、その数分後に自分がそのフライパンを使っていることが多々ある。他にも、台所の机を布巾でしっかりキレイにしたとしても、その机を最初に使うのは他でもなく自分なのである。この行動を通して感じたことが、他人の為に動いたのに、結局自分のためになっていることが多いということだ。最初は不思議だなという感触でいたが、よくよく考えれば、「他人のために動く」というのは「自分が他人にされて嬉しい」という発想から行動に移しているわけで、絶対に他人が喜ぶわけではないのだ。あくまでも自分がされて嬉しいことを自分がしている、というごく普通の行動をとっていることを最近知ったのである。もう既に四半世紀生きているのにも関わらずそんなことを知らずに生きてきたのは少々恥ずかしいところではあるが、知ることに遅いはないという信念の元で活動している。この活動は試験的な感覚で始めたが、出来ることなら生涯を通じて行っていきたい。なぜなら一番の利益を被っているのは何を隠そう自分なのである。

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