肝心なことは目には見えない

小さい頃思った。勉強は何のためにするんだろう?

特別に成績が良いわけでもなかった私にとっては勉強は苦痛でしかなかった。

高校時代の恩師がこう言った。「数学は社会に出たら何の役にも立たないけど、考え方という点において非常に役に立つ。他の教科も同様だ。幅広い観点でものごとを捉え、あらゆる視点で考えられるというとは有意義なことです。」

最近になって勉強は苦痛ではない。むしろ楽しいと思えるようになった。高校時代の恩師の言葉も30歳を過ぎた頃から良く理解できるようになった。小さな頃との違いは何のために勉強するかという目的意識を明確に持っているからなのだろう。

「何のために勉強するのか?」

良い点数を取るため。良い大学に進学するため。良い企業(公務員)に就職するため・・・

これらは皆、目標である。しかし最も重要なことは目的である。目標は言うなれば手段。どんなプロセスを通っても目的に向かって努力していれば、いつかは目的を達成できる。そう考えると目標はさほど重要ではないと言える。

何のために勉強するのか?という命題に対して、恩師の言うように「幅広い観点でものごとを捉え、あらゆる視点で考えられるように・・」と今なら答えられる。

つまり、有意義な人生を送られるために勉強するのである。

有意義な人生とは自らがやりがいを持ち、積極的に行動し、人様の役に立てるような人間に成長することだ。マザーテレサは愛情の反義語は無関心であると言った。人は一人では生きられず、愛情なくしては生きていられない。家族から、隣人から、社会から無関心に置かれた人は辛く、寂しく、生きている意欲すら湧いてこないだろう。社会から必要とされなくなった人は絶望し、自らの命を立つか無差別テロを試みて社会の関心を屈折した形で引こうとするかである。

つまり、人様の役に立つ自分がいるという実感こそが生きる喜びであり、生き甲斐なのだと思う。勉強するということは、それで得た知識を社会に出て活用することで人様の役に立てるためなのだ。そのようになるための手段が勉強という基礎知識なのである。

しかし、私がそうだったように多くの人は何のために勉強するのかが分からないものである。目先の目標(良い成績など)に捉われてつまずいた時に立ち上がれる気力が湧いてこない。そんな時に大きな目的を見定めて、これからの長い長い人生において生きる力を身に付けるために頑張るのだ、豊かな人生を生き抜くために頑張るのだ、世の中に出て人様の役に立つために頑張るのだと思えたら、その先に進めるのかもしれない。

とはいっても中々、そのような高い視点で先を見定めることは、ましてや人生経験の少ない子どもには難しいだろう。

それはなぜか?それは人様の役に立って豊かな人生を歩むという目的が目に見えないからだろう。良い点数、良い大学、良い就職というのは目に見える。人は目の前にあるものに対しては行動を起こせるが、目に見えないものに行動を起こせないものである。しかし、長い人生において本当に大切なものは目に見えるものではなく、目に見えないものなのである。先日行われた住友生命アンケートで日本の未来を強くする漢字一文字というものがあった。結果の上位順から「絆」「愛」「信」「力」「心」「結」「和」だったが、どれも全て目に見えるものではない。このような漢字が求められている時代。本当に大切ものとはこういうことだろう。

勉強においての目標と目的の話は仕事においても同じことが言える。何のために仕事をするのか?という問いに、生きるため、食べるため、自立するため、家族を養うため、中には良い成績を上げて昇進し、より高い年俸を獲得するためという人もいるかもしれないが、これも含めて、全て手段であり目標である。やはり、何のために仕事をするのかと言えば、お客様の役に立ち、喜ばれることで、自分がこの世に生きている意味や価値を実感し、そこに生き甲斐ややりがいを感じるからなのであろう。とはいえ日々の数字に右往左往してしまうのが人間の性である。

目標は手に入れることができる。そして手に入れると次の目標を見つけなければならない。しかし、目的は形のあるものではなく概念的なもので、手に入れたという実感がない。しかも、近付くに連れてそこに自己の成長が必ず付いて回るので、その自分に合わせて目的は更なる上位概念へと湧き出る泉の様に生み出されるものである。目標は手に入れるとそこで終わってしまうが、目的は限りをしらない湧き出る泉のようなものなのだ。

話は変わるが、顧客満足と顧客感動というものがある。満足は目に見える条件で満たされることが多い。価格であったり、サービスであったりである。安く得をした買い物をすると人は満足をするが、やがてそれを忘れてしまい、新たなる満足を求めるものだ。よくネット(ヤフオク)で価格を比較して一番安い所で購入して満足することは多いがどこで買ったか、誰から買ったか覚えている人は皆無だろう。

一方、感動というのは目に見えないもので感じるものだ。誠意や、気配り、真心などから感じることが多いかもしれない。そして、その感じた気持ちは一生忘れることはない。どこで、誰から掛けられた言葉かを覚えているものである。更にはその気持ちは与えられた条件による満足とは相反して次へ次へと新たなものを求めるのではなく満たされて持続する性質のものだ。

これは先述の目標と目的と性質が似ているように思う。目に見えるもの、見えないもの、手に入れられるもの、入れられないもの、次へ次へとキリがないもの、満たされると(持ち続けると)持続するもの・・・ どうやら私たちの人生において本当に大切なものは目に見えないものなのかもしれない。

『心で見なくっちゃ、物事は良く見えないって事さ、肝心なことは目にはみえないんだよ』

先日のネッツトヨタ南国株式会社相談役の横田英毅氏の講演会の話を聞いてそう思いました。

(2011年9月23日 )

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