穏やかな死について

私はいままで1回も死んだ事がありません。
普通は死んでしまうと生き返る事はありませんから当たり前の事ではあります。だから、死についてちゃんと語れるかというとかなりの疑問です。ただ、生きている内には語れないのは重々承知しているのですけど、死んでからでは語れません。一昔前なら、宗教がこの辺りを説明してくれていて、死んだら天国だったり、極楽に行けるから、生きている内に善行を積みましょうとか、生業をしっかり営んで生きましょうなんていう教えに繋がっていたのではないでしょうか。

でも、今の世の中って、死んだ後は燃やして灰になって終了です。
死後どうなるかなんて語られる事はありませんし、語り出したら怪しい奴だと思われてしまいます。そのせいで死後の自分に価値はなく、生きていなければ意味はないという考え方になってしまうのでしょうか。だから、善行を積もうとか、尊敬される人間になろうか、ちゃんと仕事をしようとかいう発想が乏しくなるのかもしれません。何しろ、どれだけ良い事をたくさんしたって、死んでしまえばそれらはすべて価値がなくなってしまう訳ですからね。多分、こうなってしまうのは科学が発展してきたせいだとは思いますが、現代の科学は人を堕落させている訳で、科学の発展が人を不幸にしている事になります。科学とはいったいなんなのだと言わざるを得ませんね。

人はいつか必ず死んでしまう生き物です。
単純な原始生物なんかだと体が千切れても再生して2つの生物に別れたりなんて事があります。でも、我々、哺乳類のように進化してしまうとそういう訳にはいきません。種の保存という事を最優先に考えた場合、多種多様な環境の変化に対応するために複雑化してその結果、性と寿命というものを設けて世代交代していくという事を選択したのだと思われます。当然ですが、それが最も効率的なのでしょう。

ホモサピエンスはその世代交代を効率的に行うために、言葉、文字といったコミュニケーションを生み出しました。
一方、ホモサピエンスに非常に似た性質をもち同じ程度にまで進化していたネアンデルタール人は滅びました。彼らが滅んだのは、言葉や文字がなく、技術、知識そして文化というものを世代を超えて継承する事ができなかったからだといういう説を聞いた事があります。

そういう事を踏まえて考えてみます。
私たちはいつか死ぬ時に、次の世代にバトンタッチしていくということがもっとも大切な生き方なのではないでしょうか。

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