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ホテル怒り天狗と微笑み天女

深夜、眠れずにお酒を飲む。医者からは止められているけれど、眠れないので飲む。別に体のどこかが悪くて止められているわけではないので、いいだろう、という勝手な判断だ。ウイスキーをストレートで。毎朝気づくと750mlのボトルが半分くらい空になっている。二日に一本の計算だ。体にはおそらく良くないのだろう。

良いの反対は悪いだ。

全然彼女ができない。僕は求めているけれどできない。人類は僕以外滅亡しているのではないかと思う。街に出ると実に多くの人がいるけれど、全ては幻影で、この世界にはもう僕しかいないのだ。それほどに彼女ができないのだからおそらくそうなのだ。誰も僕のことを好きではないのだ。

好きの反対は嫌いだ。

………

雨が降り続けていた。駅を出て目的のラブホテルに行く道中で僕はぐっしょりと濡れた。傘はさしていたけれど、特に意味を持たなかった。まるで、そうまるで、何かのように、、、。上手いたとえが浮かばないほど濡れた。そのような雨が降り続けていた。

小さく古い商店街を抜けた先にそのラブホテルはあった。商店街はシャッターが閉まり昼間なのに活気はなかった。横に入る道がいくつもあったけれど、どれも細く暗かった。その先だけが少しの光を持っていた。商店街のすぐ先には山が迫っていた。

ここは秋田のある街で、冬になると多くの雪が降る。消雪パイプがあり、道路を茶色に染めていた。今は十月だけれど、僕の住む東京から比べると随分と寒かった。冬と言ってもいいように感じた。誰もいないこの街では冬が来るのが早いのだ。

ラブホテルはどこかの山村にある郷土資料館のような感じだった。ラブホテルの名前も長い年月で読めないほどに消えていた。「怒り天狗と」のあとは読めない。「怒り天狗」は青緑色で書かれ、「と」は黒色で、その後にはどんな文字がどんな色で続くのだろう。

木彫りの天狗が入り口を挟んで左右にあり、中に入るとツキノワグマの剥製が置いてあった。剥製にはいついつに撃たれたと説明があり、その横にはその昔使われていたであろう農機具が置いてあった。どれも錆びていた。埃が積もっていた。とっくに終わったイベントのポスターも貼ってあった。ポスターの女の子がこちらを見て笑っていたから、僕も微笑みを返した。でも、彼女が表情を変えることはなかった。

………

私たちは生き残った、と大学時代の知り合いが言った。あるいはそうかもしれない、と僕は返した。その代償は大きかった。才能はなかった。あらゆることを犠牲にして才能がないことを埋めた。それは幸せなのだろうか、と今になると思う。生き残った、ただあらゆることは死んでいった。取り返しがつかないほどに死んでいった。周りの人々を見ながらそう思った。幸せではないのだ。生き残る必要なんてなかった。

平凡の反対は非凡だ。

映画を見た。その映画はまるで僕の人生を少しドラマチックにして、僕の役をイケメンにしたようなものだった。見ている最中、ずっと胸が苦しかった。イケメンは結局何も手に入れられず、美化された結末を迎えた。そんな結末を僕は求めていなかった。もっと物理的な幸せを手に入れて終わって欲しかった。でも、イケメンは美化された結末に満足して終わる。そんな結末を僕は求めていない。

物理的の反対は精神的だ。

………

フロントには灯りがついていたけれど誰もいなかった。銀色の呼び鈴があったので、それを押した。僕が思っていたよりも大きな音が響いて驚いた。フロントの奥の扉が開き、六十歳くらいの男性が出てきた。屈強な男に見えた。手に厚みがあり、白い髭をはやし、黒縁のメガネをかけていた。

部屋を選ぶという仕組みはなかった。「どこの部屋も一緒です」と男は言った。フロントの後ろの壁には小さな棚がいくつかあって、そこには部屋番号が書かれ、鍵が入っていた。鍵はほぼ全ての棚に入っていた。十月の雨の平日、あまりラブホテル日和ではないようだった。男は人差し指で端から棚を宙でなぞり、適当な部屋番号を選び鍵を出し、僕に渡した。

鍵には木で作られた天狗の小さなキーホルダーが付いていた。「私が作ったんすよ」と鍵を渡しながら男は言った。「立派な鼻ですね」と僕が言うと「ええ」と男は満足そうに笑った。本当に立派な鼻だった。天狗の鼻は長いイメージがあるけれど、イメージの倍以上長かった。鍵よりも天狗の鼻の方が長かった。天狗としてはアンバランスな気がしたけれど、その鼻のおかげでオリジナリティは生まれていた。

部屋は二階だった。リノリウムの床を歩いた。階段も廊下も現実的に暗かった。雰囲気を出すために暗いのではない。節電のために暗いと言った方がいいのかもしれない。いや、節電でもないのかもしれない。いくつかの蛍光灯は明かりを持っていたけれど、その中のいくつかは出鱈目な間隔で点滅していた。切れかけているのだ。

………

病院を出て、薬局に行きいつも通りの薬をもらい、家に向かい歩いた。途中の公園に小さな子供を連れた夫婦がいた。風が吹けば倒れてしまいそうな男の子の歩く姿を二人は愛おしそうに眺めた。僕はそんな三人を上手く見ることができない。

愛の反対は無関心だ。

パンダが歩いていた。僕は会釈をした。目があったから会釈くらいしても問題ないかと思ったのだ。パンダに会釈をして失うものはないし、同時に得るものもないのだ。パンダは会釈を返さなかった。会釈ではなく、深々と頭を下げたのだ。なんだか僕は申し訳なくなって、深くお辞儀をした。

パンダの反対はクマかシロクマ、だろうか。

………

部屋に入るとこのホテルの特徴を一目で理解することができた。向かって右の壁一面に木で作られた大きな天狗のお面があるのだ。その鼻は左の壁に真っ直ぐに伸び、壁にめり込んでいた。天狗の目は怒りに満ちている。消えかけたラブホテルの名前から読み取れた「怒り天狗」なのだ。だから鼻がこんなにも長いのかもしれない。

走り高跳びのポールのような感じで部屋を分断する鼻があり、その下にベッドが置かれていた。ベッドのちょうど中央を鼻は通る。ベッドと鼻の隙間は五十センチくらいだろうか。何かと不便だ。現に僕はこのラブホテルにいる間に何回も体をぶつけることになった。ベッドから起きあがろうと思うと自然にぶつかるのだ。

しかし、鼻は折れるようなことはなかった。立派な鼻なのだ。「怒り天狗」なのだ。怒っている時の鼻は硬くて立派なのだ。天狗にそんな特長があるのか知らないけれど、そういうことなのだろう。

このラブホテルの特長はそれだけだった。それだけなのだ。それだけのインパクトが強い。お風呂が七色に光ということもなければ、カラオケが歌えることもないし、部屋がたとえば電車とか教室とかを模しているということもない。

普通なのだ。部屋は古い国民宿舎のようだし、エアコンの効きも悪い。照明はLEDではなく蛍光灯だし、テレビはあるけれど百円玉を入れないと見ることはできなかった。唯一の特長が「怒り天狗」なのだ。その特徴が突き抜けているから僕は来たのだ。実際、怒り天狗の鼻は壁を突き抜けているわけだし。

僕は頭を一度打ちながらベッドに横になり上を向いて目を瞑った。

………

世の中には反対のものが存在する。入口があり出口がある。右があり左があり、朝があり夜がある。それは時に僕らを安心させるし、ガッカリもさせる。入口があり出口がなければ僕らは閉じ込められる。反対の「出口」があるから僕らは安心して入口を歩くことができる。

同時にガッカリもする。愛の反対は無関心だ。誰かを心から愛しているけれど、その誰かは自分を愛していない。嫌いですらない。憎んですらいない。無関心なのだ。その事実は僕をひどくガッカリさせる。暗い気持ちなる。でも、事実なのだ。存在するのだ、世の中には反対のものが。否が応でも。

………

目を閉じながら反対のものについて考えた。別にそんなことを考える必要はなかったけれど、ふと頭に浮かんだのだ。どうして浮かんだのか、と必死に考えたけれどわからなかった。急にそれは頭にやってきて、僕を悩ませた。

雨粒が窓を叩いていた。木々を濡らしていた。濡れるの反対は乾くだろうか。叩くの反対はなんだろう、と考えた。なめる、だろうという結論に達するには随分と時間がかかったし、それが正解なのかは自信が持てなかった。

では、と思う。このラブホテルの「怒り天狗」の反対はなんだろうと考えた。僕が頭を打った立派な赤い鼻を持つこの怒り天狗の反対。何も思い浮かばなかった。怒り天狗という存在も今日知ったのだ。その反対を考えるほど僕は怒り天狗の本質を掴めていない。

このホテルの名前はなんだったのだろう、と思い出した。入り口には看板があったけれど、怒り天狗までしか読めず、その先は空白になっていた。おそらく赤い塗料で書かれていたのだろう。詳しい理由は知らないけれど、赤は薄くなってやがて読めなくなる。赤の反対は青緑だったと思う。でも、知りたいのは怒り天狗の反対だった。

あきらめて目を開けて天井を見た。微笑んでいた。知らない女が羽衣を着て微笑んでいた。僕は全てを理解した。

「怒り天狗」の反対は「微笑み天女」なのだ。

天井に木で作られた天女のレリーフが飾られていたのだ。それも天井一面に。蛍光灯の部分が天女の冠になっていた。入り口からはよく見えなかったので気づかなかった。大きすぎて逆に気づかなかったのだ。

ひとつ僕は賢くなった。「怒り天狗」の反対は「微笑み天女」。ちゃんと怒り天狗にも反対のものがあるのだ。ということは、世の中にある全てのものに考えればキチンと反対のものがあるのではないだろうか。

とにかく微笑み天女は僕に微笑みかけていた。寝返りを打ち壁を見ると怒り天狗は怒っていた。赤い鼻を立派に伸ばし怒っていた。その様子を見て微笑み天女は微笑んでいた。彼と彼女は上手く行くように思えた。バランスが取れている。怒りと微笑み、悪くない。

僕はベッドから起き上がり、お風呂の横にある受話器を取り、フロントに電話をした。ここのラブホテル名を教えて欲しいと頼んだ。「怒り天狗と微笑み天女です」と男は言い、「反対なんですよ」と続けた。

正解だった。「怒り天狗」の反対は「微笑み天女」であり、「微笑み天女」の反対は「怒り天狗」なのだ。素敵なラブホテルに思えた。反対のものが一つの部屋にあるのだ。反対なのに二人は仲良くこの部屋にいるのだ。それはとても素敵なことに思えた。

ただ、と思う。このベッドで何かをするには、どう考えても鼻が邪魔だった。怒り天狗の立派な赤い鼻は邪魔以外の何ものでもなかった。でも、それがこのラブホテルの良さなのだ。そんな様子を見て天女は微笑むのだ。

僕はまた頭を打ちながらベッドに横になった。雨はいつまでも降り続けていた。いつか晴れる。反対は必ずやってくると僕は信じているから。それも幸せな反対が。

相変わらず、天狗は怒り、天女は微笑んでいた。

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