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ハンガーストライキから1年 〜全県実施のために賭けたもの〜(下)


「私の行動が誰かの力になれば」

1月19日、ハンストを終えて沖縄市にある病院に入院した。

医師による診察を受けて、特に異常はないとのことだった。

「食事は半分からとってみましょうね」と言われ、病室に移動した。

早速、看護師の方が食事を運んでくれた。
「心配しながら見てました。本当に、よくがんばりましたね」と言ってくれた。

入院するのは、2014年4月に急性アルコール中毒で病院に運ばれて以来だった。
ただよう消毒液の匂いと、少し黒ずんだ白い壁が慣れない雰囲気だった。

4日ぶりに水と塩以外のものを口にした。

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半分にしては少し多くないかと思ったけど、また動かないといけないし、とりあえず全部食べようと思って、少しずつ食べていた。

食事を終えたくらいに医師が来て言った一言が、
「あれ、普通の量出ちゃってますね」だった。

内心、「おいおいおい…」と思ってしまったが、

「伝達ミスかな〜。すみません」と平謝りされ、
「まぁ、食べられたんで大丈夫です」と答えておいた。

母も着替えを届けに来てくれた。

母は全然心配してない様子で、「もっとできると思ったけどね」と言われた。

自分の息子が命を賭ける覚悟でハンストしてたらもっと心配するだろとも思ったけど、そのくらいの鈍感さ、大らかさが、母らしくて逆に安心した。

公明党の金城県議とのやりとりは携帯のメッセージで続いていた。

ハンストは終わったので、市役所前ではなく、病室に来てほしいと伝えた。
明日(翌日)の午後伺うという返事だった。

金城県議の動きを受けて、三択案を提示した新里議長とも電話でやりとりをしていた。県議会の全会一致、市長の同意が得られて全県実施が適うなら、その方向で調整を進めていくことを話していた。

その日は泥のように眠り、起きたのは11時くらいだった。
体調も異変はなく、朝ごはんも食べることができた。

15時くらいに金城さんは病室を訪ねてくれ、20分ほど話をした。
「本当にご苦労様だった。体が一番で、心配していた」と開口一番に言われた。
青年たちの思いを受けてどうにか打開できないかと思いったこと、
軍特委から全会一致を模索していたが、調整がつかずできなかったこと、
17日に安里副代表とお会いして話をし、その後謝花副知事や新里議長、自民党側にも話をしており、それぞれに了解を得ていると話していた。

とりわけ与野党間調整のときにに、キーパーソンとなる照屋守之県議を中心に話し合いを行っていると言っていた。
また、市長も苦しい立場にあるとも口にしていた。

私からはまず、市長、市議、議長との話し合い踏まえて、署名集め、県議会での議論ももちろんだが、どうやったら市長に考え直していただけるかを悩み、11日の夜に体を張るしかないという思いに至ったという、ハンストの経緯を説明した。

最後は、「若者に未来を見せてほしい。沖縄を、政治を諦めさせないでほしい。もう一度汗をかいていただき、みんなで県民投票がしたい」と結んだ。

私自身、金城さんの動きに賭けるしかないと思っており、固い握手をして彼は病室を後にした。

医師からは、平日の月曜日に血液検査や心電図などの検査をするからそれまで入院しておくようにと言われていた。しかし、県民投票へのタイムリミットが迫る中、全県実施に向けて動き出した流れをもう一押しすべく、夕方には退院して、三択案に難色を示していた与党県議の方と私一人でお会いした。

与党県議は、県民投票の会が三択を受け容れるのかどうかと、5市長が実施する担保が取れるのかを条件としていた。

私からは、会としてはまだ話をしていない以上、何とも言えないが、与党が乗らなければ全県実施の可能性はなくなるため、引き続き検討してほしいとお願いしていた。

その翌日、21日(月)も引き続き、与党県議と同様の交渉を行い、どうにか、まずは各政党・会派、与党が一致するように働きかけていた。

その協議の後に病院に行き、最後の検査を受けた。異常は特にみられないとのことだった。

ハンストを終えて体力が戻らなかった方、副作用を起こす方もいるという話を聞いて、不安もよぎったが、今回はどうにか大丈夫そうだった。

その夜に県民投票の会で会議を持つ。
みんな心配そうだったが、お詫びと「よくがんばった」と言ってくれた。
会では、「全市町村での事務実施を行う政治的環境が整うのであれば、条例改正に対し、柔軟に対処することを確認した」との声明を出した。

190121声明

これを受けて県・与党がまとまり、与野党間での調整、条例改正、市長の参加表明となっていく。

もちろん、県民投票の会や支援をいただいた方々への御礼や、三択案への意見についても電話で話を聞いていた。二択の実施を強く望んでおり、10万もの方々から署名を頂いたにもかかわらず、拒否をした市長によって三択という選択肢を模索せざるを得ない状況が悔しかった。

二択で5市抜きの県民投票か。
三択で全県実施の県民投票か。
苦渋の決断だった。

ハンストを終えても、綱渡りのような交渉・調整が続いていた。

ちむわさわさーしかしなかった。

全県実施は、ひとつボタンを掛け違えたらありえない出来事だった。
私のハンストをきっかけに事態を動かすことができたと思っている。
私だけの力では決してないけども、初めての"成功体験"と呼べるような出来事だったのかもしれない。
私はあくまでひとつの象徴のようなものでしかなく、多くの市民、県民、全国の方々が動いたからこそ、政治を、世の中を変えることができたのだ。

この経験が、声を上げる、抵抗する人たちの力になることを切に願っている。ハンストをやった私もそうだったように。

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(写真は普久原朝日撮影)

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