『春琴抄』再読
40年以上前の幼い頃、自分の目に針を刺すシーンをテレビでたまたま見ていて、それが強烈なイメージとして今も心に残っている。
ずいぶん経ってから、おそらく『春琴抄』の実写ドラマだろうということに気がついた。
『春琴抄』は大学時代に読んだが、今思うと当時はあまりよく分かっていなかったように思う。幼い頃のテレビのあのシーンがこれだということは直感したが、それほど深い感銘は受けなかった。
最近、伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読み感銘を受け、その後まずこれを読み直さなくてはと30数年ぶりに『春琴抄』を手にした。改版されて当時よりも字が大きくなったのは、素直にありがたい。
再読した『春琴抄』は生々しく、ゾクゾクした。読み手としての自分がずいぶん変わったのだなぁと思う。
春琴からの強烈な叱責と深い依存。鶯や雲雀の鳴き声。三味線の音。肌の触感。
谷崎潤一郎は『春琴抄』の前後にも『盲目物語』などを書いており、目の見えない人の物語をテーマのひとつとしていた時期があるそうだ。目の見えない人の感じ方、触感や音の世界について深い洞察を持っていたのだろう。『目の見えない~』を読んだことで、そういった部分の表現がいきいきと感じられた気がする。
それにしても、『春琴抄』はすごい。当人達の立場では深い純愛なんだろうが、一歩下がった立場で見るととても異常な関係である。本来濃密にあったはずの性的描写はあからさまには描かれないが、かえってそのことで想起されるものがある。
解説を読むと、『春琴抄』についての批判として次のようなものがあったという。
人物の心理が書けていない
いかに生きるべきかの痛烈な問いかけと訴えがない
クソリプじゃないか、これ。
あえて当人の心理描写を行わなわず淡々と客観的に語る表現の中にしっかり心の内がにじみ出ているし、「異なる」世界にいる人の強烈な生き方が訴えかけられているではないか。
ただ、そう読めるようになったのは、積み重ねがあっての今だからかもしれないなぁと、目を細めてみる。
二人で築きあげた春琴と佐助の深い関係、ちょっとうらやましく感じる。痛いのは勘弁だが。