親子兄弟姉妹で意見が違うことには意味がある
コロナ禍は社会の分断を招いていると言われる。
国際的な人の移動は大幅に制限された。国内でも県境をまたぐ移動を自粛しろと言う。(ウイルスには国境も県境もないのに)
自粛で交流や出会いの機会が減り、出会ってもマスクで相手の顔を覚えられず、親兄弟・親子孫も会える機会が減っている。
仮に会ったところで、「コロナ怖い/怖くない」「マスクする/しない」「ワクチン打つ/打たない」云々で意見が合わず、喧嘩になってますます分断が深まったりする。
(かく言う私も「マスクしろ」と言う両親・妹たちと絶賛絶交中である。)
こうしたことを悲しいこと辛いことと思うのは当然の感情かもしれないが、実は親子兄弟姉妹の意見が違うことには意味があり、違っていい。
逆に違わなければ困るのだ。
仮に、後戻りできない道を家族で歩いているとしよう。
目の前に分かれ道が現れた。どちらがどこへ続いているのか?誰にもわからない。
家族全員が同じ道を選んだなら、もしその先にライオンや盗賊やビルゲイツがいたら、一家全滅して子孫は残らないかもしれない。
「右に行こう」と言う者と「左に行こう」と言う者、意見が分かれて二つの道をいくことで、どちらかが生き残る可能性が増える。
生命誕生の頃、全ての生物は単細胞だった。1つの細胞が分裂して2つになり、4つになり、8つになり、それぞれが違う生き方をすることで生き残ろうとした。
でも1つの細胞はとても弱かった。くっついて生きた方がいいんじゃない?そう思って分裂してからもくっついて生きることで多細胞生物になった。
くっついて生きる仲間たちは分化した。
「俺は足になる」
「私は頭」
「おいらは腸」
それぞれがちがう細胞になったからこそ生き残れた。それぞれがちがう役割を果たしたからこそ生き残れた。
さらにオス・メスが分かれた。それは自分とは違う子どもを産むため。子どもたちは親の異なる遺伝子の異なる部分を受け継ぎ、それぞれ違った生き物になった。
もっと多くの細胞がくっついたまま分化せずに際限なく巨大な生物になる選択肢もあった?悪性腫瘍のように?事実は、そんな生物は生き残らなかった。
様々な選択肢を試し、もっと小さくて多様な生き物が生き残ったから、今のような生態系になった。
陸で生きることを選んだイヌと、海で生きることを選んだクジラの祖先は同じだった。(そしてどちらも今のところ生き残ってる)
その一部はヒトになり、人もまた男女が一緒になって自分とは違う子を産んだ。
「俺は猟師になる」
「私は芸術家」
「おいらは百姓」
それぞれが違った役割を果たすことで社会が生まれ、発展した。
男女が一緒にならなければ、家族にはならない。
いつか別れることがなければ、家族になった意味がない。
歴史の分岐点で、家族はいつも別々の道を選んだ。
応仁の乱、南北朝の乱、関ヶ原の戦い、一族は示し合わせたわけでもなく東軍西軍の両方に分かれて戦った。
それはどちらかが生き残るために生物誕生(物質誕生?)以来繰り返されてきた習性・本能だった。
今、時代はまた大きな分岐点に直面している。
自粛し、マスクをつけ、ワクチンを打ち、権力に忖度して生きる者たちが生き残るか?
それともコロナを恐れず、素顔で生活し、ワクチンを拒否し、自由を求める者たちが生き残るか?
それはまだわからない。(私は後者だと思っているけど)
ただ分かれることに意味がある。お互いの存在に意味がある。分かれるからこそ、違う道を行けるのだから。
別れは必要だ。手を繋いだまま別々の道を歩くことはできないのだから。
意見が違う相手は時に「バカ」に見えたり、理解できなかったりする。
理解できなくて当然。相手と自分はちがうから。
理解できないからといって、相手を憎む必要はない。仲良くする必要もない。
金子みすゞじゃないけれど、
父母と、妹と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
たとえ自分が間違っていて死んでしまうとしても、そしたらあいつらが生き残ってくれるだろう。
もし幸運にも自分たちが生き残ることができたとしたら、死んだあいつらに感謝しよう。
相手が違う道を選んでくれたから、自分はこちらを選べたのかもしれない。
そしてできることは、自分も、親も、子も、兄弟姉妹も、
ただ自分の道を、精一杯生きるだけ。
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