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コロナで肺炎体験記② 入院編 実感ないまま「危険な非日常」へ

編集部 山田 洋一

 「入院編」なのだが、入院拒否事件から報告しなければならない。発症から5日目(8月25日)早朝、発熱が40度に達したうえ、脳みそを針で突っつかれるような頭痛に耐えきれず、救急車を要請した。コロナ陽性者であることと、主な症状を伝えると、「出動します」とのこと。
 20余分後には、完全防備の隊員が2名入室し、血圧などのバイタルチェック。パルスオキシメーター(以下、SpO2)を取り出し、血中酸素濃度を測ると96。隊員たちは顔を見合わせ、外に出て行ってしまった。ぼそぼそと相談している声が聞こえる。間もなく、責任者らしき隊員が「保険所と連絡を取った結果、自宅療養していただくことになりました」。「行政はともかく、医療に見放され落胆」と日記に書かれている。救急車が患者を置き去りにして帰ってしまうことが、この日本でありうることを初めて知ったのであった。
 しかしこの入院拒否によって尼崎市保健所は、地域の開業医に訪問診療を要請し、その2度目の診察で入院が決定したのだから、入院には必要不可欠な事件でもあった。
 発症から10日、発熱は治まった。ウイルスとの闘いはおおむね決着がついたかに見えたが、ここから一気に肺炎が広がった。免疫機能が暴走し、健康な肺細胞を自ら破壊してしまう「サイトカインストーム」である。血中酸素濃度がどんどん下がり、40㍑/分に達した。酸素吸入を外すと、すぐにSpO2が90を切るという事態だ。
 「かなりやばい」と思っていた8月30日朝7時、スマホが鳴った。─「他の患者さんの治療で近くまで来ています。体調はどうですか?」─医師の声である。入室した医師は、酸素濃縮器とSpO2の数値、さらに私の様子を見て真顔になり、スマホで検査機器の数値の写真を撮影して保健所に送信。「すぐに入院です」と言ってくれた。このたまたまの訪問診療が、第2の幸運となった。
 入院先は、尼崎市で唯一のコロナ専用病床を運営する兵庫県立尼崎総合医療センター。6年前に新築された地域中核病院で、最新機器と優秀な医療スタッフが集まっているに違いない。既に平熱が数日続いており、酸素マスクさえつけていれば日常動作に支障はない。送迎車を降りると、車いすが用意されていた。「大袈裟だな」とは思いながら、検査室に運ばれた。肺のCT検査その他を終え、同院8階に設置された4人部屋のコロナ専用病室が、12日間の私の居場所となった。

 完全防備姿の看護師は、入室する度にすべての防護服を脱ぎ捨てる。SpO2は、24時間体制で看護室でチェック。急激な変化に備えており、入院5日目までは、トイレ室に行くのも禁止で、尿瓶で用を足すという警戒ぶりだ。検査結果を見た若い医師は、「中程度から重症寄りの肺炎。炎症が広がればステロイド剤の増量も予定しています」という。全く実感がわかない中で「意識不明となった時、延命治療は受けますか? 拒否しますか?」とも聞いてくる。「形式として聞いているだけでしょう。大袈裟だな」という心の呟きが聞こえた。
 完全隔離病棟なので、見舞客はない。患者同士の会話もなく、病室は極めて静かだ。3食昼寝付きだが、1畳のベッドの中だけで過ごす24時間は、非日常そのものだ。本を読むか、考え事をするしかない。単調な時間が流れたのだが、ハッと思わせられる事件はいくつかあった。
 70歳超と思しき同室者の容態がわずか3時間で急変。移動先を聞くわけにもいかなかったが、ICUだったのかもしれない。また、40歳位の新規入室者は、3日間意識不明のままICUで治療を受けていたという。私には「平和で静か」と思われた病室は、生死の境をさまよう病人のそれだったようだ。
 幸い私は、入院5日目に窓際のベッドに移ることができ、高層階からの景色を眺め、DVDで映画鑑賞し、疲れたら眠るという生活が続いた。「退屈だな」と思い続けたが、かなり幸運なことだったようだ。大過なく退院にこぎ着けることができた。
(次号につづく)

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