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短編小説「裏庭のホムンクルス」

<作品イントロダクション>

家族とも離散し一人きりで暮らす中年の理髪師が主人公は、ある日、奇妙なお客から一粒の球根をもらいます。
裏庭に打ち捨てた球根は、いつの間にか芽を出し、つぼみを膨らませました。
やがてそのつぼみがゆっくりと開くと、中から出てきたのは、かくも美しい女の小人・ホムンクルスだったのです.....

というお話です。
日常系ファンタジーにミステリーの要素を加えた短編小説。
最後の最後に訪れる驚愕の真実をお楽しみください。

それでは、上映です。


 目が覚めた。薄汚れた天井が見える。三月も終わりに近づき、わりに暖かい朝が続いている。
 神庭雄彦は、腰の痛みに気を配りながら、布団の上で身体を起こした。そこで一息つき、のそのそと立ち上がる。
 今年四十三歳になる。まだまだ老け込む歳ではないはずだが、体調は思わしくない。身体の不調というより、精神的なものが大きいのではないかと感じている。あまり考えたくはないが、「生きる気力」というものが、日に日に薄れているような気がしてならない。
 布団を畳んで部屋の隅に置いた。今度晴れたら干そうと思いつつ、いざ晴天になると面倒になり、結局冷たい布団に寝続けている。
 寝室を出て、きしむ廊下を進む。築四十年を越えた建物は、家主同様、様々な場所がくたびれてしまっている。
 台所に入り、水を一杯飲んだ。乾いた胃の腑に、冷水が染み渡る。
 腰を下ろして一休みしたい気分だったが、それをやってしまうと、しばらく動けないことは分かっていた。
 神庭は、冷凍庫からラップに包んで保存しておいたご飯を取り出し、電子レンジに入れてボタンを押した。
 生卵を一つ茶碗に割って、かき混ぜる。ヤカンを火にかけ、買い置きしておいたインスタントの味噌汁を用意する。これで焼き鮭でもあれば最高だが、贅沢は言わない。
昨日の夕食だった総菜の残りがあったので、それをおかずにする。
 リビングのカーテンを開けた。春の柔らかい日差しが飛び込んでくる。ひばりのにぎやかな鳴き声が聞こえた。
 朝食をテーブルに並べ、無言で食べ始める。機械的に食物を口に運び、租借し、飲み込む。それの繰り返し。毎日、三回ずつ定期的に行う事務的な作業だ。
 静かな住宅街だが、多くの人が生活している以上、様々な音が聞こえてくる。人の声、車の音、足音、笑い声。
 音は、密度の高い場所から低い場所へ流れてくるようだ。神庭の周囲に、生活の音はない。会話もない。テレビは、コンセントを抜いてある。
 ホコリをかぶったテレビの横にある写真立てに目がいった。
 若き日の神庭、そして妻と娘の姿が写っている。みんなこちらを向いて笑っていた。どうしたら、あんな風に笑えるのか。今の神庭には、それを想像することもできなかった。
 かつて、色とりどりの草花でにぎわっていた裏庭は、伸び放題の雑草と、どこからか飛んできたゴミで荒れ果てていた。
 神庭は、今朝、何十度目かのため息をつき、味噌汁の残りを口に流し込んだ。


 神庭理髪店は、中之原町で四十年続く老舗の床屋だ。神庭は二代目になる。
 店は、住宅街の真ん中にある一軒家で、店舗の裏側が住宅になっている。高い塀に囲まれた敷地は以外と広い。母屋は平屋だが、下手な二階建てよりも部屋数は多いかも知れない。建物の南側には、広々とした裏庭がある。
 神庭の父親が、一人息子に残してくれたものといえば、この土地と家くらいのものだ。無口で頑固な職人だった父親から、親としての愛情を感じたことはなかったが、今となっては感謝している。
 神庭は、いつも通り午前九時に店を開けた。今日は、午前中の予約が入っていない。平日は、たいていそんなものだ。
 神庭は中之原で生まれた。一度、東京に出てから、また戻り、そこから数えて、この町での暮らしは一八年になる。
 ここ数年で、町は大きく変わった。近くを高速道路が通り、見渡す限りの田畑だった場所に、医療系の私立大学がキャンパスを作った。
 町には学生があふれ、それに伴い様々な人や店や物が流れ込んでくるようになった。
 過疎化の一途をたどっていた町は、瞬く間に活性化された。だが、良いこともあれば、悪いこともある。
 若者が町に増えたことで、そこかしこに外見だけはお洒落な美容室が乱立した。東京で流行しているカットやパーマを売り文句に、派手な宣伝を繰り返す美容室に対抗して、老舗の理髪店にできることは皆無だった。
 神庭の店を利用していた中高生は、皆、そういった美容室に流れていった。神庭に言わせれば、若い美容師の作る髪型は、小手先だけの安易な技術と格好の良い売り文句によって偽装された「素人の手習い」に過ぎなかった。
 神庭理髪店を訪れるのは、顔見知りの常連ばかりになった。それでも、神庭が一人で質素な生活を続けていくだけの収入は得られた。それで十分だった。
 神庭は、この世界の多くを求めることをすでに諦めていた。
 散髪用のイスに座って、ぼんやりと鏡に写った反転の世界を眺める。無意識のうちに、ポケットから銀色のジッポーライターを取り出し、親指でフタを開け閉めした。
 ボリュームをしぼったラジオから、青春時代によく聞いた懐かしい曲が流れてきた。恵美とつきあい始めた頃、流行っていた曲だ。
 かつて、神庭の妻だった恵美が家を出てから、もう八年になる。彼女が今どこで何をしているのか、神庭は何も知らない。
 チリン、と控えめにベルが鳴った。
 振り返ると、濃いグレーのスーツを来た初老の紳士がドアの前に立っていた。初めて見る顔だった。
 「よろしいかな?」
 男は、フェルト帽をとって言った。
 「ああ、いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
 神庭はあわてて立ち上がり、隣のイスをすすめた。
 男は待合いスペースのイスに帽子とステッキを置き、ジャケットを脱いだ。神庭はそのジャケットを受け取り、ハンガーにかけた。タグにあるブランド名を読むことは出来なかったが、それが高級品であることは、高級ブランドにまったく縁のない神庭にも分かった。
 男はしっかりとした足取りで、散髪用のイスに腰掛けた。
 「今日は、どのようにいたしましょう」
 神庭は、男の後ろに立って言った。
 「さっぱりと短めにしてもらえるかな」
 男はきれいなロマンスグレーの白髪で、襟足が長く、耳の半分くらいが隠れていた。
 「かしこまりました」
 あいまいな注文に聞こえるが、常連客の多くは「いつもの」の一言で済まされる。具体的な指示がある方が稀だ。要するに、お客の要求を加味しつつ、一般的な基準でおかしくない程度に散髪すれば良いのだ。難しいことではない。
 神庭はいつもの通りに仕事を進めた。まず、男の髪を洗う。マントをかぶせ、髪を切り整えていく。
 規則的なハサミの音。指で髪をそろえては切り、そろえては切る。
 男との間に、言葉のやりとりはない。男は眠っているのか、軽く目をつむり、微笑みを浮かべているようにも見える。
 二十五分ほどかけて、髪型を作った。全面の鏡でバランスを確認し、両開きの手鏡を持ち出して、男に訊いた。
 「こういった感じで、いかがでしょうか?」
 鏡に男の後頭部が写っている。男はそれを確認して「結構ですよ」と頷いた。
 イスのリクライニングを倒し、男の髭を剃る。男の肌は、歳の割にはハリがあった。髪の色で老人であると判断したが、意外と見た目より若いのかもしれない。
 髭を剃り終え、髪を洗い、ドライヤーでかわかす。正味、四十五分程度の作業だ。これで、三千五百円。この報酬額が正当なのかどうかは、神庭自身にもよく分からなかった。
 「はい。お疲れさまでした」
 毛のついたマントをとり、ブラシで男の身体をはらう。
男は座ったまま正面を向いており、立ち上がる気配がない。
 「実はね、あなたに言わなければならないことがある」
 男が言った。
 「はあ、なんでしょう」
 嫌な予感がした。
 「私ね、お金を持っていない」
 男は鏡越しに、ウインクをした。
 「はい?お金ないの?お金ないのに、髪切りに来たの?」
 「まあ、そういうことになるな」
 「そういうことになるなって、あんた」
 あまりに冷静な態度に、神庭の方が面食らってしまった。
 男はどっしりとイスに座ったまま「どうしたものかねえ」と歌うようにつぶやいている。神庭は男の後ろで、怒ることも、怒鳴ることもできず、呆然と立ち尽くしていた。
 ぽっかりと口を開けて惚けている自分の姿が、鏡に写っていた。それを見たら、なんだか急に笑いがこみ上げてきた。
 「ふふっ、度胸のあるじいさんだな。いいよ、代金はいらない。特別大サービスだ」
 長く床屋をやっているが、こういうケースは始めてだった。
 「いいのかい?」
 「ああ、いいよ」
 「しかし、まったくの無料という訳にも」
 「だって、金がないんだろ?仕方がないじゃないか」
 「うむ。いやしかし、それじゃあ、あまりにも申し訳ない」  
 男は口を「へ」の字にして、顎に手をあてた。
 金がないというから、ただにしてやると言っているのに、今度は「それじゃ申し訳ない」という。もしや、自分をからかって面白がっているのかと疑ったが、本人は真剣に悩んでいる様子だ。
 「そうだ、こうしよう」
 男は突然声を大きくして、ポンと手を叩いた。
 男は立ち上がると、飛び跳ねるように歩いて、ハンガーにかけてあるジャケットのポケットを探った。
 「あった、あった」
 男は、いたずらをしかけようとしてる無邪気な子供のような顔で笑いながら、神庭に近づいてきた。
 「何です?」
 「あんたに、これをやろう。手を出しなさい」
 神庭は、言われるままに右手を差し出した。
 「ほれ」
 男が手の平に置いたのは、植物の球根だった。
 「これ、球根?」
 「そうだ、球根だ。礼はいらないよ。とっておきなさい」
 男はそれで満足したらしく、さっさとジャケットを羽織り、帽子をかぶった。
 「それでは、ご機嫌よう」
 男はステッキを胸の前にかざし、帽子を傾けて一礼すると、颯爽と店を出ていった。
 神庭は、球根を手の上に乗せたまま、その後ろ姿を見送った。

 3

 いつも通りの暇な一日を終え、午後七時に店を閉めた。
 すぐに風呂をわかし、湯船につかる。肩まで熱い湯につかると、喉の奥から吐息が漏れる。年寄りくさくて気に入らないが、出てしまうものは仕方がないと諦めていた。
 風呂から上がるとそのまま冷蔵庫へ直行し、冷やしておいた発泡酒を缶のままあおる。この時間が、今の生活の中で、一番生きていることを感じられる場面だった。
 食欲がなく、まともな夕食を食べたいとは思わなかった。行きつけのホームセンターで買いだめしておいた焼き鳥の缶詰を開け、それを肴に発泡酒で胃を満たす。
 テーブルの上に、球根が転がっている。昼間、おかしな老人が代金の代わりに置いていったものだ。
 神庭は、その大ぶりの球根を手にとった。中身がつまっているのか、見た目よりずっしりと重い。
 昔は、この家の中でも、よくこの手の球根を目にした。かつての妻だった恵美は、若い頃から土いじりが好きだった。恵美が、神庭の実家であるこの古い家に移り住むことをすんなりと了承したのは、広い裏庭があったからだ。
 恵美は、リビングの窓辺に娘の穂花を寝かしておき、ガーデニングに精を出していた。
 神庭が、まだ家族というものを持っていた頃、神庭家の裏庭は、季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れる、それは賑やかな庭園だった。
 神庭も妻に言われるがまま、その作業を手伝った。土を耕し、雑草をとり、種を撒き、球根を植えた。
 神庭自身は、特に草花に興味があった訳ではない。ただ、楽しそうに作業をする恵美の隣で、その笑顔を眺めているのは、幸せだった。
 やがて、そこに成長した穂花が仲間入りする。小さなプラスチックのシャベルを持った穂花は、二人の真似をして土をいじった。
 あの頃、三人は間違いなく家族だった。
 いつ、どのようにして、その幸せな関係が崩れたのか。決定的だったのが、十年前のあの事件であることは言うまでもない。
 あの時から、神庭家をとりまくすべてが変わってしまった。
 神庭は、球根を握りしめ、窓に向かった。ドアを開け、外に首を出す。
 春とはいっても、日が落ちると風はひんやりとしている。
 かつて、メルヘンの世界から飛び出したような一面の花畑だった裏庭は、無惨な荒れ地と化していた。雑草は伸び放題。風に乗ってやってきた汚いゴミが、壁際にたまっている。
 壁の向こうには、鉄製の足場や建築資材が、積まれている。
 十年前、そこには徳川という風変わりな老人が住んでいた。
 徳川の家は、俗に言う「ゴミ屋敷」だった。徳川は錆び付いた軽トラックでどこかへ出かけて行っては、ゴミにもならないガラクタを集めて来て放置した。敷地内には、半ば野犬化した野良犬が何匹もいて、通りがかる人に誰かれかまわず吠え続けた。
 風向きによっては、ひどい異臭が町中に立ちこめたため、近隣の住民が抗議をした。徳川は謝罪するどころか、汚水をポンプで汲み上げ、住民の代表者たちに浴びせた。
 あまりの傍若無人ぶりに自治体も重い腰を上げ、ゴミの強制撤去が決まった矢先、徳川は変死体で見つかった。
 それからしばらくの間、ゴミ屋敷は放置され続けたが、いつの間にか撤去作業が始まり、やがて更地となった。
 そのすぐ後、建設会社が土地を安く買い叩き、今は資材置き場として利用されている。
 空は雲一つなく晴れ渡っていた。家の中から漏れる光とわずかな月明かりが、朽ち果てた裏庭をぼんやりと照らす。
 光の届かない左手の奥は、完全な黒が支配する闇の世界だった。
 酔いが回ったのか、その闇の中で何かがうごめいた気がした。野良猫でも迷い込んだのか。小さな二つの青白い光が、こちらをじっと見つめているような気がした。
 その瞬間、皮膚と肉の間を何かぬめりのある物が通り過ぎるような感覚があった。全身に寒気が走る。
 神庭は、思わず、握りしめていた球根をその闇めがけて投げつけた。
 球根は壁にぶつかり、音もなく土の上に転がった。
 二つの白いものは、跡形もなく消えていた。

 翌日は、一日中、しとしとと雨が降り続いていた。長年の立ち仕事でボロボロになった腰は、湿気の高い日に特に痛む。
 ぱらぱらと断続的にやってくる客をこなし、なんとか無事に一日を終えた。
 いつものように長風呂につかり、残り物で夕食を済ませた後、リビングのテーブルでノートパソコンを起動させた。
 まったくの無趣味である神庭だが、唯一趣味と言えるものがあるとすれば、パソコンということになるだろう。
 何も特別なことをする訳ではない。インターネットでニュースを見たり、くだらない動画を鑑賞したり、買い物をしたりするくらいのことでしかない。
 インターネットを始めてから、新聞がいらなくなった。さらに、わざわざ外に出て買い物に行かなくとも、欲しい商品を届けてくれるというシステムも気に入っている。
 元来、出不精だった神庭だが、一人暮らしになってから、その傾向に拍車がかかった。もちろん、出かけるのも面倒ではあるが、それ以上に何か買い物をするために人と接するということが煩わしかった。
 神庭は、他人と会話をするのが、あまり得意ではない。客商売をしているくせに何を言っているのかと思われそうだが、本当なのだから仕方がない。
 床屋の場合は、会話などしなくても、客が勝手にしゃべっているグチに相づちを打っているば、それで事足りる。客はしゃべり疲れれば、あとは神庭の仕事が終わるまで寝ているのだから、気が楽だ。
 わざわざ人混みの中に入っていって買い物をするくらいなら、家の中でパソコンの画面を見ながら注文する方が、よっぽど気が楽で良い。
 いつも閲覧するポータルサイトを開き、最新のニュースをチェックする。
 目に付いたのは、有名俳優の自殺のニュースだった。
 かつて映画やドラマで引っ張りだこだった俳優が、自宅で首吊り自殺をしたのだという。あまりドラマや映画の類に興味のない神庭でも、知っている役者だった。
 その俳優は、自室のドアノブにベルトをかけ、そこで首を吊って死んでいたらしい。
 前から不思議に思っていたのだが、ドアノブで首を吊って、本当に死ねるのだろうか?
 首吊りといえば、天井など高い場所からロープを吊すというイメージがあるが、意外と「ドアノブ」が使われることが多い。
 ドアノブのような低い位置では、例え首を吊ったとしても、体が地面についてしまう。それで、ちゃんと死ねるものなのか。それが疑問だった。
 神庭は、新しいページを開いて、検索窓に「自殺 方法 ドアノブ」と入力した。エンターを押すと、検索にひっかかったページがずらっと表示される。
 実際にあった自殺事件から、自殺の方法を懇切丁寧にマニュアル化したページまで、多種多様な「自殺関連ページ」が世の中には存在するのだ。
 神庭は、興味をひかれる見出しを見つけると、そのページに移動して、熱心に文章を読み込んだ。
 何か、苦しまないで死ねる方法はないだろうか。
 神庭はトップページに移動し、検索ワードに「自殺 苦しまない 方法」と入力し、マウスをクリックした。

 何かに追い立てられるような夢を見て、目が覚めた。額に汗が浮かんでいる。背中がぐっしょりと濡れている感覚がある。
 周囲はまだ薄暗い。枕元の時計を見ると、まだ五時だった。最近は、タイマーをセットしなくても、決まって七時きっかりに目が覚める習慣がついていた。
 神庭は、ゆっくりと体を起こした。昨日、二時過ぎまでパソコンとにらめっこをしていたからか、頭がひどく重い。額に手を当てると、少し熱があるようだった。 
 今日は、珍しく朝から予約が複数入っている。いつものようにのんびりしている訳にもいかない。
 「まったく、こんな時に」
 神庭は、一人悪態をつき、重い体を引きずるようにして立ち上がった。
 まず、汗で濡れた肌着とパジャマを着替え、買い置きしてあった風薬を飲んだ。 
 冷蔵庫の中を見たが、冷却シートのような気の利いたものがあるはずはない。どこかに氷枕がしまってあると記憶していたが、押入の中には見あたらなかった。
 尿意を催してトイレに行く。便座に腰掛けた時、そういえば、使わないものは裏庭の物置にまとめてしまったことを思い出した。
 トイレを出て、リビングに戻った。窓を開け裏庭に出る。雨ざらしでボロボロになったサンダルを爪先にひっかけ、雑草を押しつぶすように歩いた。
 プレハブの物置は、西側の壁際にある。最後に開けたのがいつだったか思い出せない。随分と昔のことだったのか、それとも自分の記憶力が衰えているだけなのか。そもそも、こうして裏庭を歩くのも、久しぶりのことだと気がついた。
 「だあ」
 どこからか、声が聞こえた。触れれば折れてしまいそうな、か細い子どもの声だった。
 神庭は立ち止まり、周囲を見回した。いくら目を凝らしたところで、あるのは荒れ果てた庭と灰色の壁、その向こう側に積まれた鉄の塊くらいだった。
 「ああ、やだやだ」
 これまでの身体の衰えを感じるような出来事は多々あったが、ついに空耳まで聞こえるようになったかと思うと、さすがに気が滅入った。
 「だあ」
 再び声がした。さっきと同じ子どもの声だ。
 「ああ、畜生」
 神庭は髪の毛を両手でかきむしり、足下に生えていた背の高い雑草を蹴り飛ばした。 「ふぎゃっ」
 ひときわ大きな悲鳴のような声が聞こえた。声の聞こえた方に視線を向ける。ぼんやりと像を結んだ焦点の中心に、一輪の花があった。
 地面からまっすぐに延びた茎。その上に、湾曲した葉が玉座を形作るように、円を描いている。
 玉座の中心に、「それ」はいた。まるで、滑らかな陶器のマリア像を半透明のロウで包み込んだような質感をしている。陽光を浴びて艶やかに光る表面に周囲の緑が映り込んでいた。
 「それ」は確かに、人の形をしていた。長い髪、流れるような鼻梁、形の良い唇、控えめに膨らんだ胸、すらりと延びた足。足先は、まっすぐに緑色の茎へとつながっている。
 神庭は、「それ」の前にひざまづいた。「それ」の放つ神々しいまでの美しさは、一瞬で神庭を魅了した。
 「それ」は太陽の光を浴びるうちに、少しずつ薄い桃色を帯びてきた。血を通わせたマリアは、小首をくねらせるようにして、確かに神庭を見据えた。
 「だあ」
 彼女は、言った。

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