読書メモ:『いつもそばには本があった。』國分功一郎,互盛央

気鋭の研究者2人による、本にまつわるリレー形式のエッセイであり、ブックガイドでもある。

國分が学生時代に大きく影響を受けた柄谷行人から、マルクス、ドゥールーズ、デリダ、フーコーに触れ、アーレントに流れ着く。一方、互は、専門とするソシュールの言語論を皮切りに、その幅広い読書遍歴を語りだしていく。

2人に共通する本と知への熱い想いに乗って、相手方の話を承前しながら連なっていく多くの本と思想が様々に蛇行し、飛び交い、読者を人文の世界にいざなっていく。

ただ、難解な思想をあまり説明もなしにどんどん放り込んで話を進めていくので、特に哲学についてかなり豊富な基礎知識がないと辛い。わりと一般向けのような体裁に見えるが、それは罠であり、企画的にはややいただけなかった。

面白そうな本をいくつも知ったし、それだけで満足ではあったけど。

メモがてら、特に以下2点。

柄谷行人『哲学の起源』と、

哲学はどんな時代にも栄えるわけではない。古代ギリシアを見れば、ポリスが危機に 陥った際に哲学が栄えた事実は明らかである。プラトンも腐敗しきったアテナイで哲学した。最近だとそのことを非常に強い口調で論じたのが柄谷行人『哲学の起源』である(なお、私は近年の柄谷の本の中で、これは出色の出来であり、文芸評論家としての柄谷行人の力量が遺憾なく発揮された傑作だと思っている。

アメリカ精神医学会のDSMはとても気になった。

精神分析は影響力を失った、と言われることが多い。その理由としてよく指摘されるのは、アメリカ精神医学会が精神疾患を分類する基準を示すべく一九五二年以降、改訂を重ねつつ刊行している『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM) が影響力を強めてきた、という事情である(現在の最新版は、二〇一三年の第五版(DSM‐5))。これは、その名のとおり精神医学の「マニュアル」化を促進した。
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「人間を人間たらしめている究極的な条件」にDSMは関心をもっていない、ということだ。DSMは「統計」に基づいて「ある特定の状態が、ある特定の期間、見られること」(例えば、食欲の減退または増加の状態が二年以上見られ、その状態が見られない期間が二ヵ月以上続いたことがない、など) を基準に「精神疾患の診断」を行うものだからである。そこで問題になるのは「現れ」だけで、「原因」が問われることはない。


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