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権力技術としての都市~「向かうこと」の二重の収奪

最近、イヴァン・イリイチの『エネルギーと公正』を読んだ。

イリイチの産業資本主義とテクノクラシー(技術官僚主義)への一連の根源的な批判書のうち、特に「移動」を扱ったもので、「人類は技術発展とともに、人間的で生産的な移動速度の範疇を超えてしまった」といったことが書かれている、とてもおもしろい論考である。


以前、都市について文章を書いたのだけど、『エネルギーと公正』を読んで色々考えを巡らせているなかで、都市というものもまた「速度」という観点で捉え返すことが出来ると思い始めてきた。

具体的には、この記事中では都市のスケール(の大きさ)に触れているけれど、それに加えて、都市が必ず「向かう場所」であり「遠方にあるもの」である点も合わせて考えなければいけないな、と。

イリイチによれば、輸送技術の進歩による移動速度の向上は、場所の分散性を高め、移動にかかる距離と時間の増加につながる。現に、現代人は交通機関を使い、都市へと向かうようになった。自らの足のみではたどり着けないほど都市は遠ざかり、経路は特定の交通手段に占有されている。日々都心へと通う人々は、毎日の少なくない時間を通勤に費やす。千葉あたりのマイホームから往復4時間かける人だっているわけだ。

彼の指摘の重点は、本来徒歩圏内で身体を動かし公共圏をも形成していた人類の生の価値が、高速の輸送手段による「根源的独占」の結果として不可避に損なわれている点に置かれている。

個人的には、さらに現代の技術の状況に照らして、より”加速”された疎外の状況に目を向けたい。ここで重要なのは、そうした移動時間中、電車内でほとんどの人がスマホを見ているという点である。増大した移動時間で、人々はスマホを見るようになった。画面の中にあるのは、様々な形に表現された消費欲求の喚起の形態である。

大雑把に捉えれば、移動それ自体を消費社会全体の広告メディアと見ることができて、そうすると都市とは、一つの巨大なメディア技術であるのかもしれない。

イリイチが指摘したのは、「速度」として制度化された産業資本主義による収奪の実態である。隠蔽された移動の負の内部性を補填するために、移動し働き続ける大衆。

しかしイリイチが厳しく批判した20世紀後半の社会より、状況はいま、一段と悪くなっているのではないか。現代のメディア技術と結びついた移動は、より一層の消費需要の増幅装置へと変貌し、より一層個人の生を疎外するのではないか。メディオロジーとテクノクラシー批判の文脈は、現代において限りなく接近している。

「都市」とは、そこへ向かわざるを得ないことを通じて、移動それ自体によって、そして同時に移動に伴うメディア技術によって、"二重の収奪"として組織化された構造物なのかもしれない。それは都市を、そして産業資本主義社会を無際限に拡大していくための権力技術といって差し支えないだろう。

人は休日に都市でなにかを消費するために、平日に都市へと向かい、働く。汗水たらして稼いでいる金銭は、可視化された商品の代金と移動の代金、それに不可視の移動コストと不可視の消費的人間の維持費用を、不断に支払い続けるための原資である。そしてこの無限の回転装置は、一見して単なる中継点としか見えない「向かう」ことが発する莫大なエネルギーによって、無限に動き続けることになる。


どこかでちゃんと論点をまとめたい。

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