めくるめく翻訳の世界~東江一紀『ねみみにみみず』

野矢茂樹の書評本から辿った一冊。

言葉の魔術師の魔術的エッセイ集

ミステリー/SFをはじめ、様々な分野での200を超える訳書において、数々の名訳/珍訳を残してきた名翻訳者、東江一紀(あがりえかずき、と読む)。

言葉の魔術師と称され、訳書以外にも雑誌連載等で多くのエッセー的雑文を残してきた彼の雑誌連載や訳者あとがきを、弟子でありこれまた人気訳者である越前敏弥(『ダヴィンチ・コード』の訳など多数)が、著者の没後に編纂したのが本書である。

軽妙で柔らかな語り口から、ジョーク、ダジャレが出るわ出るわ。言い回しのうまさ、ダジャレの妙、いいまつがいの数々に、読みながらついつい顔が綻んでしまう。このオッサン、ただのオッサンではない。このオヤジギャグも、ただのオヤジギャグではなく、言葉遊びの魔法であって、これが魔術師たる所以かと得心する。

自虐的矜持

また、全編を通して、貧乏暇なしで出版社に軟禁された翻訳"囚人"として仕事にふける自分の姿を、徹頭徹尾自虐的に描いている。締め切りを守れず、深酒にひたり、ついついパチンコや競馬場に足が向く、悲しき翻訳者の生態が、面白おかしく白日のもとに晒される。

これ、なにかに似てると思ったら、左右社から出てる企画勝ちの良書『〆切本』―古今東西の作家/文豪たちが編集者に宛てた、〆切遅延の言い訳書簡を集めた”言い訳文学”― に似ている。

書きたい。書かなきゃいけないのも分かってる。でも腰が重い。筆が乗らない。〆切はとっくに過ぎてる。妥協せず時間をかけて良いものを作りたい気持ちはある。真剣に向き合えば向き合うほど、気分転換したくなる。

これ、滑稽と捉えて笑って読むことはたやすいけれど、ものづくりに携わったことのある人であれば多少なりとも気持ちは分かるはずだ。

加えて、なんとも憎めない、この人柄、この愛くるしさ(編集者にとっては”相苦しさ”かも)。ただ、そうおちゃらける彼の言葉の端々にも、翻訳という仕事への大いなる愛と、業界や同業者に向けた温かな眼差しが透けて見える。

翻訳という"業"の深みから

「翻訳」という業について考えると、これはなんとも複雑困難なものだ。

原文に完全に忠実な翻訳なぞ存在しない一方で、あまりに意訳しすぎると原著の意図を毀損した第三者の創作にいとも簡単に堕してしまう。

言語/文化圏が違えば、当然のように対応する言葉が無かったり、対応する文化風習がなかったりする事態が頻発し、書かれている言葉の当意を正確に写し取りにくいものが大量に出てくる。良く挙げられる例として、エスキモーは、雪を良い表すため数十種類もの名詞を持つが、それを日本語でうまく訳出するためには手持ちの単語を上手く組み合わせてやり繰りする必要がある。言語というものを「差異」の体系と捉え、その文化圏における価値の体系が表出したものと説いたのはソシュールだが、エスキモーにとって雪の状態を仔細に区別する事が日本人にとってよりも遥かに重要であるように、その文化ごとに重要ごとと捉える価値が、そのまま言葉の違いを生み出す。

畢竟、完璧な翻訳というのは不可能なのである。

本書の中でも、著者の翻訳者としてのスタンスは、時代によって異なっている。

曰く、訳者は透明な媒体であり、原典の意味を漏らさず正確に読者に伝えるべきである。
別に曰く、翻訳とは創作であり、原典の意を外れないギリギリの瀬戸際で、訳者自身の感性を生きた言葉に乗せて放つものである。

こういう、翻訳作業の実相そのものからくるバランスの難しさの上に立ち、それでもなお、訳者がその事実から決して逃げず、並ならぬ慎重さと大胆さを以て、自言語読者に本の内容を伝え切ろうとするとき、もう片方のコミュニケーションの担い手である我々読み手側にとっても、逃げては通れぬことがある。

それは、テクストの読みにおいて、「訳者」という、決して無色透明ではない媒介物の存在を認めることであり、個別具体的な「この訳者」をしかと捉え、丁寧に”読む”ことだ。

翻訳者をとりまく社会的・資本的環境、翻訳者の生態、訳者個々人の生い立ちや専門、イデオロギー、個性。そこから生起する訳文の独自性。

こうした訳者本人に対する”読み”は、テクストの精緻な読みにつながるだけでなく、原作者が原著に込めた想いや意図を、より豊穣に味わうことを可能にしてくれるし、それがそう訳された意味/意義をも見て取ることで、その書物の全体が初めて読者に対して開かれるのである。

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最後に、巻末収録の、著者が実際に使っていたという名刺の載せておく。この偉大な翻訳者の、皆に愛される人柄も、ユーモアも、その傑出した言葉運用能力も、そのぜんぶが、この短い紹介のなかに凝結している。

誤訳・悪訳数知れず。毒訳・爆訳あと絶たず。飛訳・活訳ままならず。死ぬまでずっと訳年の、訳介者の訳立たず。
東江一紀

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