自由の風を”省察”する~中江兆民『三酔人経綸問答』
久々にすごい本を読んでしまった。短く、とても読みやすいこの劇作が、日本思想史に輝く名著と評されるのも、読んでみると頷ける。
日本の政治が変わっていく今、その行く末を”前向きに”憂うための態度と論点は、130年前に書かれた本書の中に、全部詰まっている。
"東洋のルソー"と『経綸問答』
著者の中江兆民(1847-1901)は明治を代表する政治思想家で、憲法・議会の設立などを通して人民の自由を訴える自由民権運動の理論的指導者であった。フランス啓蒙のルソー『社会契約論』を日本に紹介した『民約 訳解』の業績により、”東洋のルソー”と呼ばれている。
本書『三酔人経綸問答』は中江兆民の主著である。まず、小難しそうなタイトルをひと目見て思わず敬遠しそうになるのだけど、そこで手を止めなくて心底よかった。一世紀以上前の本に「タイトルがキャッチーじゃない」と言ってみても始まらないのだけど、中身は実はとてもポップな本だ。要は「3人の酔っ払いが経綸(国策のビジョン)について座談する」という意味で、訳者解説によると兆民自身も「お遊びで書いた取るに足らない本である」と言っていたようだ。
これ、設定がまず超面白い。まいにち酒を飲みながら政治を語り、のほほんと暮らしている「南海先生」という仙人のような人がいる。ある日、いつものように酔っ払っていい気分になっている南海先生の庵を、ある2人の紳士が訪れる。「洋学紳士君」と呼ばれる方は、東西の思想に通じ、博識でプレゼンも流暢。ロジカルに自説を積み上げていく理論派である。他方の「豪傑君」は、名前の通り豪放にして大胆、いかにも脳筋キャラっぽい出で立ちで現れる。思想も背景も全然違う3人が、酒を酌み交わしながら昼と夜と経綸談義にふけり、結局なにも結論が出ないまま解散する。
対話篇といっても、議論の応酬も2-3ターンぐらいのさっぱりした内容である。しかしこの話が、近代日本を語るに外してはおけない重要書として評価され、兆民の一番の主著として後世に残ることになる。
議論の骨子
3人の議論をざっくりなぞる。19世紀中葉の時代背景のなか、「西洋列強と伍していくために、日本はいかにして立ち回ればよいか」というお題に対し、まず洋学紳士君の長口上が始まる。
ほぼ前半のすべてを覆う洋学紳士君のターンでは、平和主義と軍備撤廃、徹底した自由と民主平等の制度設計による文明の躍進が滔々と説かれる。
民主平等の制度を確立し、人は誰もみな自由を回復する。要塞を打ちこわして軍備を撤廃し、他国にたいして人を殺す意図などないことを示し、また相手国もそうだとこちらが信じていることを示して、国全体を道徳のゆきわたった道徳の庭園に、学問の農園にするのです。
その語り口の鮮やかさと、大陸から吹く自由の大気の爽やかさに、ついついうっとりしてしまう。
対する豪傑君、軍備拡張を声高に唱え、実際の積極的な行為において自由を獲得することを訴える。洋学紳士君のいわば非武装・非暴力主義に対し、そうした軟弱な国は生き馬の目を抜く世界ですぐに攻め落とされてしまうと全否定のツッコミを入れる。他国を攻め、領土を広げることで辛うじて他国と渡り合って国を維持していくことができるという。
そして2人のやりとりを、少々の合いの手を入れながら穏やかに微笑みながら見守っていた南海先生が、最後に語り始める。南海先生の主張はまず、前2人の中庸を取ったものと位置づけられる。他国から攻められた際に守れるだけの軍備を保つ専守防衛の精神のもと、自由の制度についても、決して一足飛びに進めようとはしない。
専制から立憲制に至り、立憲制から民主制に至るというのが、まさに政治社会の行程なのです。専制からいっきょに民主制に至るのは、順当ではありません。なぜか。人々の意識には帝王の思想や公爵や伯爵の意象が深く刻まれており、それが一種の神仏のごとく、お守りのごとく目に見えない力を及ぼしているので、急激に民主制に移行すると、人々の意識が攪乱されてしまう。これはまさに人間心理の法則なのです。
一挙に西洋風の人権を掴み取るのでなく、現実主義的に、漸近的に、まずは「賜った民権」から徐々に人民の意識を育てていくことを説く。
紳士君、紳士君。思想は種子であり、頭脳は畑です。きみが真に民主思想を喜ぶならば、これを口に論じ、書物に著わし、その趣旨を人々の頭脳にひろく植えつけるのです。数百年後、それが豊かに国中に生い茂っているかもしれません。
こうして全体を総括している南海先生の説は、中江兆民自身の考えに一番近いものと解釈されている。しかしそれでも、あろうことかこの主張も他の2人に「曖昧すぎる」とバッサリ切られてしまっている。具体的な国策に結びつかないと言われるのだ。実際に、この話の箇所には「南海先生はごまかした」というタイトルが付されてもいる。
ついぞ結論は出ないまま、二人の紳士は庵を後にする。問いは、閉じられない。
この議論、当時の時代背景をしっかり押さえると、どれもかなり筋が通った話になってくる。ときは18世紀、遠洋から黒船がやってきて、鎖国が解けた瞬間に日本人が目にしたのは、見たこともないような科学技術を駆使して世界を征服せんとする強大な西洋帝国群であった。彼らは、武力が巨大なだけでなく、社会制度においても我が国に2歩も3歩も先じていた。モダンな人権意識に支えられた議会制民主主義。発達した商業。これら驚異を肌で感じながら、国家の生き残りのためのビジョンを早急に策定することが迫られていた時代である。
豪傑君も洋学紳士君も「帝国主義といかに対峙するか」という視点で語るなか、南海先生だけはどこか飄々としている。まぁ彼らも馬鹿じゃない、国家道徳と国際法のもと、各国によく組織された議会や国内メディアがあれば、軍部の暴走は阻止できるので、我が国は最低限の防衛力を備えていれば良い、と。
実際、このような国家の危機と言ってもよい時代のもとでは、たしかに南海先生の話で「上手くまとまったね」と終われないところがある。現に攻め入られる恐怖のもと、国民全員が納得して中庸を選択できるとも思えない。現実主義といいながら、洋学紳士君と同じく、南海先生の考えにもどこか理想めいた部分が残る。
日本の軍国化とバーク『省察』
実際には、その後どうなったのか。当時の日本人もこの問答に触れて大いに議論したであろうが、その歩みはほぼ純粋な国粋主義、軍事国家へと傾いて行ってしまった。この事実は、戦火にまみれた20世紀前半の日本の歴史が教えるところである。南海先生が唱えた、賜った民権をうまく育てるという見立ても、ここにおいて厳しい評価に晒される。
そうしていつしか、天皇から賜った民権としての欽定憲法はGHQから賜った日本国憲法になり、世界大戦はグローバル市場を舞台とした経済戦争へと移る。失われた何十年だかの長い踊り場の最先端に、われわれ現代の日本人は、なにかふわっとした”自由”めいたものを手に、悶々としている。
現実の移ろいを見るに、やはり南海先生は甘かったのだろうか。
思想と事業とがたがいに重なり、連なりあって、曲がりくねった線をえがいたものが、万国の歴史です。思想は事業を生み、事業はまた思想を生み、このように変転してやまないのが、進化の神の進路なのです。ですから進化の神は、社会の頭上に君臨するのでもなく、社会の足下にひそんでいるのでもなく、人々の頭脳のなかにうずくまっているのです。
帝国議会の設立など、一応の形を為した自由民権運動は、しかし人々の頭脳の中に自由と道徳の種子をうまく育めなかったように見える。なぜそうなってしまったのか、その原因分析は筆者の身に余るが、それでもやはり「どうすれば軍国化に傾かずに理性的な自由を育むことができたのか」という問いは残る。
それを考えたとき、同じ「自由」について南海先生とかなり似た思想ながら第4極とも言える主張が、18世紀初頭のフランスにあったのを、ふと思い出す。
保守主義の父エドマンド・バークが、以前紹介した主著『フランス革命の省察』において次のように述べていた。
イギリス人は、自由や権利を相続財産のように見なせば、「前の世代から受け継いだ自由や権利を大事にしなければならない」という保守の発想と、「われわれの自由や権利を、のちの世代にちゃんと受け継がせなければならない」という継承の発想が生まれることをわきまえていた。そしてこれらは、「自由や権利を、いっそう望ましい形にしたうえで受け継がせたい」という、進歩向上の発想とも完全に共存しうる。
―バーク『新訳 フランス革命の省察』
自由も慣習の枠内にある 。文明社会は慣習を踏まえて成り立つとすれば、慣習こそがもっとも基本的な法となる。
―バーク『新訳 フランス革命の省察』
自由の種子は人の頭脳の中にあると説いた南海先生に対して、バークは、共同体に根付く習俗と、それを基盤とする身体化された習慣こそ、自由の最良の伴侶であると述べる。規範を守ること、国土と風土を守りゆく「継承の精神」こそが、自由の源泉であると述べる。そしてそれは自然法ですらあると。
現代においては、なんとなく日本人は草食系でおとなしいイメージがあるが、歴史を省みると全然そんなことはない。どちらかというと気性が荒く争い好きな戦闘集団として、アジアで数少ない独立国を貫いてきた。戦国時代を振り返らずとも、サムライが頂点に君臨する「士農工商」といった階級制度だったり、秀吉が中国に攻め入ろうとしてたり、アジア各国に海軍や傭兵を派遣していた事実を見ても、それは明らかである。
そうした本来的な闘争に向かう性分と、開国直後の生存の危機が合わさったとき、過度な軍国化に走ることは必定だったかもしれない。結果論でしかないのは承知の上で、ここにおいて、「開放」という外向きの力としての自由ではなく、「制約」という内に向かう自由こそが、当時の日本には必要であったのかもしれないと考えることは可能であろう。「正義」をめぐるコミュニタリアニズムの主張も、ここに接近している。
保守の本流である第4極から眺めると、南海先生の立場もまた、いささか洋学紳士君に近い立場であるように見えてくる。問題は、獲得されるべき「自由」の「それ自体なにであるか」に立ち帰ってゆく。
改めて、豪傑君の慧眼のこと
本書が面白いのは、登場する3人の主張が絡み合うなかで、単純なインテリvs脳筋vs中道の3すくみの構図に終始することが全く無いところである。どの説も極端といえば極端で、それ自体でどこか甘美な響きを持っているのだが、とくに、単なる軍拡パワー系と思われていた豪傑君の言説のすごみと深みが、論が進むにつれてどんどん際立ってくる点は、読んでいて鳥肌が立つほどだ。
他国に遅れて文明の威力を得ようと思う者は、その手段はさまざまあるにしても、要するに巨額の資金を投じて買いとるほかはないのだが、しかし小国にはその資金がない。何とかして大国をひとつ切り取らなければ、豊かな国となることができない。...
他国に遅れて文明の道をめざす者は、これまでの制度、法律、格式、意識など、すべてを変革しなければならない。
例えば、この発言のなかに「文明」の蓄積というものに対する一つの深い洞察がある。西洋の道具を獲得し、思想を真似るだけでは、本物の文明に到達することはできないし、武力や領土の量的拡大もまた手段でしかなく、ことさら文明の蓄積のために注意深く取られる手段であるという考えがここから読み取れる。
また、洋学紳士君の平和主義に対して、闘争は避けられないと説く場面。国内ですら必然的に現れてくる対立軸として”古いもの好き”vs"新しいもの好き"―右翼-左翼的対立が意識されている―を挙げ、自身の主張する軍国主義をも、実は闘争本能のままに動く古いもの好きを切り離す手段として提示している。
洋学紳士、「古いもの好きの元素を殺す方法は?」 豪傑の客、「彼らを集めて、戦争に駆り出すのです。彼ら古いもの好きは、政府につらなる者も民間に暮らす者も、誰もが平和に嫌気がさし、何ごとも起こらない時代に自分をもてあまし、手足がうずうずしているという状態なのです。
...
(ここで、洋学紳士をまっすぐに見すえて) ぼくのような者も、また社会の癌です。自分を切除して、末ながく祖国に害を及ぼさないことを願うだけです。
量的拡大を説きつつも、人間の根っこのところにある逃れ得ない闘争本能をえぐり出し、その上で自らをも古き人間として切り捨てることを説く、冷徹で鋭い自己客体化の精神を、当時の日本は持ち合わせてはいなかっただろう。実際に日本国が通った道は豪傑君の主張に近くとも、根底に流れる思想のレベルでは雲泥の差があったのではないか。
豪傑君の吐く言葉はどれも重く、実は他の2人よりも多く、人間に対する深い理解を備えていたのではないかと思わせてくれる。
現代の「民権」の庵で
本書刊行から130年を過ぎ、「自由」は大分変わっただろう。現世において、個人が自己責任のもとでやりたいことを追求するに、なんら障壁はない。君主はおらず、基本的人権は保証されていて、社会保障も随分と充実した。「好きなことで、生きていく」ことが標榜される時代である。
本書の中で交わされた長談義のように、自由は文化の多様を生み、商業の発達を生み、次なる100年に向けた思想を生んだだろうか。彼らが「自由」の中に見た進歩へのポテンシャルは、その十全な開花を果たせていないように自分は感じる。個人が全面に押し出される最中に公共圏も私有圏も衰退し、継承していくべき習俗(エートス)は、誰も見向きすることのない”古臭いお説教”として捨て去られてしまっている。
自由の枠組みのなかで、権利と義務のバランス感をどう育て、継承するかは依然として重要だろう。「好きなことで生きてい」きながらも、共同体の構成員として迷惑系Youtuberにならない規範と他者への想像力を受け継いでいく。そのための新たな公共が求められている。
自由を受ける「場」としての、オープンな対話の形式もまた、本書の特徴である。立場も思想も違う3人が寄り合い、闊達な議論をして去っていく。知恵者だがどこか隙がある南海先生みたいな人が、自由な議論のハブになる。自分もああいう人にならなければいけないのかもしれない。
問答は、現代の新局面において、古くて新しい相貌を我々の前に表している。国家100年の計のど真ん中の論点に対して、いまだ古びない開かれた問いを多く残した本書の議論は、そして各人の言葉の端々に現れる社会と人間を深く貫く洞察は、ほんとうにすごい。一言一言が熟慮を促し、またそれ以上に、われわれの”創造的な”自由のために本書のような議論の場こそが要請されていることを得心させられる。
今まさに、読まれるべき傑作である。
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