人物を描くのは風景や静物を対象にするのとはやはりちがう
はじめに
小学校以来、風景を好んで描いていた。友人たちがマジンガーZやウルトラマンなど身近な漫画やアニメのキャラクター、女の子たちが少女漫画の主人公を絵にするのを横目でみつつも、やはり近くの風景を写生するばかり。
ヨーヨーやローラースケートが流行ってもちょっとやるだけではまりはしない、ちょっと斜にかまえた変わり者。もくもくと絵を描いた。
きょうはそんな話。
本と絵と
小さな頃の性向の一部はそのままかもしれない。そんな気がする。わたしにとっての絵はどんな時期でもそれなりにつづいてきた。その絵の対象が大学をさかいにがらりと変わる。
高校まで風景ばかり描いていた。もっぱら鉛筆で写生。気が向けば水彩絵の具で色をのせる。小中学生の行動半径はそれほど広くない。風景といっても近所ばかり。いずれも歩いて行ける。家の窓から見える風景すら描いていたほど。
絵と本と
外遊びもよくしていたが家ですごすなかで絵とともに本に親しむ。そのなかでさまざまな作家に出会う。北杜夫との出会いは中学2年のころ。「どくとるマンボウ~」のシリーズは中学生のうちに読み終え、文庫化される新刊を心待ちするほど。
当時の売れっ子作家の遠藤周作を陽とすれば、彼はどちらかというと恥ずかしがり屋で自らの陰の部分も著す。一方で「どくとるマンボウ~」では活発な面やユーモアあふれる題材をとりあげていた。
彼の「幽霊」などは純文学で内省的。中学生のわたしにはすこしむずかしい部分もあったが、独特の世界をあたまのなかで思い描いていた。勝手にさし絵を空想した。本と絵とは切り離せない。
人物を描く・描かれる
もっとヒトを描かなくちゃと思い立ったのは大学で。美術部に入部したのがきっかけ。ここではだれもがもっぱらヒトを中心に描いていた。風景ばかり対象にしてられない雰囲気に圧倒されたかもしれない。あるいは自然と興味関心がヒトへと向きつつあったかも。
もちろん美術部ではおたがいに描き合うのがふつうだったし、身近なヒトをつかまえてはモデルをたのんでいたし、同時にたのまれもした。部内の人物を中心にだれもがおたがいさまで、こころよくひきうけてくれるのでありがたかった。
絵のモデルはやり慣れないとけっこうしんどい。多少うごいていい頃合いとそうでないときが極端。描く人物の見えるときは視線だけうごかし、いまは動いてよさそうだとか、上半身を休ませようとかタイミングを合わせられるときも。
描くには
部内では始業前に部室でクロッキーの練習。顔ぶれはおなじになり、数か月後にはわたしと同級生の女子学生のふたりに。毎朝のようにあいさつもそこそこにごそごそと自分のクロッキー帳をとりだして始業直前まで交代しつつ描いた。こうして相手をじっくり正面からみつめることはふだんはない。
たいてい部室を出ると外ではわたしがもっぱら描く側。やはり身近な人物に声をかけて描かせてもらう。多くは友人たち。ふだん部屋までおとずれるなかまたちならば遠慮はいらない。だが描いてみたいなと思う人物にはそれなりに気遣いが必要。とうぜんなのだが。
おわりに
おなじクラスのある女性はそんな対象。生き生きした印象の人物でそれを表現してみたい。どうしようかと思ったがせっかくなのでたのんでみるとふたつ返事でOK。昼休み中の講義室で何人かまだクラスメイトのいるなかでクロッキーしたり、おなじポーズの写真にしたり。
おたがいに見知ったどうしでもやはり気をつかう。お礼をしたはずだがどうしたのか思い出せない。あくまでもこちらのわがまま。それで描かせてもらえただけで光栄。むしろ社交に慣れないわたしよりまわりが気をきかせてくれていた。
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