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リモートではないのに1日だれにも出会わないしごとから今後を予想した


はじめに

 研究パートではたらきはじめて1年半ちかく、スタッフのみなさんのはなしやしらべたデータから、せかいのなかで日本の科学論文の伸びがいまひとつで、このヒト気のなさ。ここに今後の進展をおさえてしまいそうな要因になりそうな感触。

きょうはそんな話。

はたらいてみておもうこと

 以前はたらいていた研究機関で研究パートとしてお世話になっている。当時(20年前)とくらべてちがうなあと感じたことをいくつかあげてみる。いずれもヒトとの関係性について。

まずは昨今の状況がつづきその余波がじゅうぶん残っているため、学生さんたちのたくさんあつまっている状況はほぼない。いたとしてもそのほとんどはひとり。たまに2,3人のかたまりがちらほら。

ひろいキャンパスのみわたせる範囲(200メートルほど先)までほとんど歩いているヒトを見ない。ほんとに1万人ちかくがここに出入りしているとはとうてい思えないほど。このようすは3年間ほとんど変化がないという。

いたしかたないのだが、それにもまして建物内にもヒトの気配がうすい。まず人声がしない。たまに閉まったドアごしの廊下でヒトのこそこそと話し声が聞こえると、むしろ奇異にかんじるほど。昨今の状況でヒトの気配にすらビクつくほどの変化をわたしにあたえている。めったに会話の機会がないせいかヒトの出す音となって響いてこない。

まだまだある

 人声がない。当然のごとくヒトにも出会わない。朝8時から夕方4時まではたらいているあいだ、だれにも会わずにキャンパスをあとにするのがほとんど。もちろんしごとなので日報や研究ノートの記録を記してのこしていく。それもメールで。

そこで4月からこれではよくないと、数人あつまりガランとした広い教室でゼミをやりはじめた。ひさしぶりの応答の機会。こう聞くとそう答える。ああ、そうか。じかに話し合うとはこういう空気感だったんだと、やっぱり以前の雰囲気とおなじだとどこかなつかしい。

これは夢を見ているのだろうかとおもうほど。ヒトに会わないままでいるとこんなふうに感じるんだとSFの世界のような不思議な体験といえる。

ヒトのとくにすくない西側の階段の上り下りでは、これまでの1年半でひとりに出会ったかどうか。相手の方もおそらくヒトに会うのは想定していなかったようでおたがいばったり出会ってともにびっくり。おたがいあわててあたまをさげる。

しごとの合間にウエブカメラでやりとりすると、やっとヒトに出会えたきもちになる。現実世界ではかなわずに、こうしてなかばバーチャルで出会ってヒトにやっと出会えたとおもえるなんて。距離感がわからなくなる。

ひるごはんをひとり弁当なのも…

 1日ヒトに会わない理由はほかにもある。それは手づくりの弁当。経済的だしやはりおいしい。以前はキャンパス内の食堂だったり、配達の弁当だったり。

以前は学生さんたちやスタッフたちとはなしをしながら数百人のなかでにぎやかに食べていた。ところがいまは基本的にひとり。それが望ましくおなじ研究室でもリラクゼーションスペースで時間をずらして食べている。かさねないことで接触の機会をへらしている。

これは家でもおなじなのでいたしかたない。

ここではたらいてつねに出会うヒトはこの半年でほぼ4~5人ぐらい。のべでもその2倍ほどだろうか。このひろいキャンパスに数十人しかいないといわれてもあながちそうかもなと納得しそうなぐらい。じつは1万人いるといってもだれも信じないだろう。

これでも出会う数人のうちのひとり(外部のかた)が感染。こんなに接触のすくない生活でも、タイミングしだいでは感染するときにはしてしまうとわかった。

おわりに

 これまでできない経験をさまざましている。予想だにしなかった。今後はすこしずつヒトに会う生活になるかもしれないし、意外とこのままでなかなかふえていかないかもしれない。ここの研究の手法はグループの力が求められる。交流を意識的にやらないと研究の幅はひろがっていかないし進展も望みにくい。

昨今の状況をきっかけにヒトとのコミュニケーションがますます希薄になっていくのかもしれないと想像してしまう。一方で高齢の支援の必要な両親がいるわたしは基礎疾患もち。もちろんこの4年間で身につけ学んだことも多い。さまざま配慮をしたうえで、そろそろ配慮の上での交流に意識を集中しようと思う。

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