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私と台湾日本統治時代。

台湾といえば親日とグルメだろう。
グルメはさておいてその親日感情が「犬が去って豚が来た」という感情を元にしたものであるということは知っておくべきだと思う。

私は知らないと恥ずかしい内容として認識しているが、しかし驚くことに多くの日本人が知らないか忘れてしまっていることに、台湾における50年間の「日本統治時代」というものがある。

日本が西欧から亜細亜の開放をするのだと銘打って大東亜戦争という侵略戦争を展開したことは知っているだろう。
しかし我々の教育は大体がそこで止まっている。中国や韓国が戦中の行いについていつまでもがなり立ててくれているから我々はそれらの行いに対しうっすらとねじくれた感情と認識を持っているが、そこに台湾や東南アジアなどの国々まで入っているとは中々意識されづらいのが現状だ。

無論、台湾とて戦中から親日であったわけではない。抗日闘争は日本統治時代に潰されながらもそれは日本が去ってからも台湾独立運動として変化し脈々と今に受け継がれている。

台湾人は日本統治時代は中華こそが自分達のアイデンティティの源であると設定し抗日運動の中核を形成してきた。
それは無論、彼らは歴史的事実として大陸から渡ってきたのであるから理解できる。

主に台北の平地から大陸移民たちは侵略していったわけだが、大陸民はいったい当初誰を追いやったのか。
それは何万年も前に南方から渡ってきた原住民である。今でこそ原住民は主に東側の山中にいるものと思われているが、元々は希少な平地に暮らしていたのを徐々に山間部へと追いやられていったのだ。

さて肝心の日本統治時代に話を戻すが、台湾人は統治時代の日本に感謝しているなどありがたい言葉も実際に存在するが、それをそのまま鵜呑みにするのはどうかと思う。
事実、その感謝の念は日本敗戦により日本が台湾から去り国民党政府が大陸から移住してきて初めて意識され始め、台湾独立運動の中で醸成されていった価値観なのだ。

日本敗戦当初、台湾人は無論のこと日本の敗戦を喜んだ。もちろん全ての台湾人がそうとは言わない。日本人に同情してくれた多くの台湾人がいたことも事実だ。
しかし、大抵は日本からの解放を喜び大陸からの同胞を心から歓迎した。ついに真の同胞と理解し合い、日本がそっくりそのまま残した社会的財産を分かち合いながら台湾自治の元、中国国民党と共存していけると思っていた矢先、まず上陸してきた見窄らしい軍隊の見た目にガッカリした。しかしそれでも同胞は同胞だ。さぞや抗日闘争でやられたに違いない。光復歓迎!と両手を挙げて出迎えたのだ。
それでも台湾人の同胞へのガッカリはこれだけでは止まらない。存外いくつも日本統治時代のある種の良さというものが国民党政府との比較により浮上してきた。
清潔さや正直さを筆頭に、例えば地主の権利を温存したり植民地経営の中でも収奪、蹂躙の仕方が国民党政府はあまりにえげつなかった。それに加えて政府、行政の露骨な腐敗にすっかり台湾人は幻滅してしまった。

そこで自ずと盛り上がるのは抗日運動の中で醸成された民族意識であり台湾独立運動の機運だった。
そうした中で二二八事件と言われる民衆への発砲致死事件が起こり日本統治時代の次は白色恐怖という世にも恐ろしい、犠牲者の数は未だはっきりと確定しておらず3万人が処刑されたとも言われる戒厳令に突入していくのだ。

まさに、彼らの視点から言えば「犬が去って豚が来た」の一言に尽きる。

さて、以上のことを踏まえて今回は全く美味しくない台湾を、私と台湾の関係を軸に記したい。

私の祖母は17歳まで台湾で生まれ育った湾生だ。湾生とは「台湾の日本統治時代に現地で生まれ育った日本人」のことを指す。ちなみに日本統治時代とは1896年ー1946年の50年間だ。

一族渡台の歴史は1896年、台湾の日本統治時代初期まで遡る。
祖母の祖父、高橋 猪之助は千葉の生まれ。当初は養父の由義に連れられる形で渡台したが、数年後、由義の娘 はま と結婚し婿入りする。
由義は高進商会という会社を設立し、会社は敗戦まで高橋家の家業であった。
高進商会は猪之助の代で大きく成長し、猪之助はいくつかの会社の代表や顧問や役員を兼任しており、淡水川の畔に建築した1000坪の高橋邸の他に高進商会社屋、大安の家など資産も莫大だった。

猪之助には2人の娘がおり、次女 秀子が祖母の母にあたる。秀子は横光家から次男の尚秀を婿養子に迎え結婚し、親戚には台南市長に就任した横光良規がいるが、尚秀は疎開先の苗栗で不運にも敗戦の年に亡くなった。
山中にある碍子工場が艦砲射撃の的となり、全員を防空壕に入れてから最後に入ったところで500キロ爆弾がすぐ近くで爆発し、何らかの破片のようなものがヘルメット越しに頭部へ命中。即死だったようだ。

私はまだその尚秀さんが亡くなられた場所が特定できず、残念ながら手も合わせられていない。

祖母はピアノに大変な執心があり1946年まで帰還を引き延ばしたが、ついに帰還の身となり門司港に降り立った。一家の大黒柱がいないことで祖母達6人の子供達とその母は厳しい生活を強いられた。
無論のこと、敗戦後の日本は皆が一様に苦労をしており、むしろその中では5体満足で親戚の離れを間借りできたというだけでも恵まれていたと理解しているが、幸も不幸も個々の尺度であり、敗戦により祖母達が辛い思いをしたという事実は変わらぬことと思っている。

その後、兄妹力を合わせて戦後を生き抜き、祖母は働きながら夜学に通い小学校音楽教師の免許を取得し、勤務先の小学校で祖父と出会い結婚し2女に恵まれ長女の洋子から私に至る。

祖母は裕福な台湾時代と苦難の戦後との対比から、幸福だった台湾時代をこそ悪夢と思い込むことで辛い戦後を乗り越えた。そのため、娘にはもちろんのこと孫の私にも台湾の思い出を語ることはなく、記憶は年に数度会う兄妹間でのみ共有されていたものだった。

そうした中で私と台湾との出会いは、2015年にタグボートアワードでの大賞受賞から台北における作品展示の機会を得ることから始まった。
折から「存在と記憶/時間と蓄積」をテーマとして活動していた私が、台湾という土地から祖母のルーツに導かれていくのは1つの必然的な流れであったと今は思う。

その後、グループ展、個展の他にアートフェアの出品や滞在制作など台湾での活動を多数行っている。直近では2019年にトーキョーアーツアンドスペースから台北のTreasure Hill Artist Villageへの派遣アーティストとして選出された。
滞在制作では、日本統治時代最もお洒落と言われながらも数奇な運命を辿った高橋邸を、私とは異なる独自の視点からリサーチしていた台湾人アーティスト周 武翰と出会った。また、統治時代の研究者やジャーナリスト、翻訳家との出会いを得て、更に統治時代の記憶や自身のルーツへと踏込んだ活動を行っていくこととなる。

祖母を通し徐々に日本統治時代の記憶へと旅路を進めていく中で、歴史の必然として湾生の高齢化や消えゆく事実とも向き合わなければならない。
直接の記憶を持たない我々世代が如何にしてそれらを引き継ぎ新たな関わりを紡いでいくのか、その萌芽は既に台湾の中に見出すことができる。

多くの日本人が台湾に日本統治時代があったことも知らず、最近になってようやく外交上の興味として注目し始めたのとは対照的に、台湾では若い世代が既にアイデンティティの一部として日本統治時代を捉えており、「我々」という民族意識を明確に背負い世界中へ飛び立っている。

彼らにとっての一部として存在している、日本人と台湾人を結ぶ紐帯を日本人側が意識すらしないのはあまりに無責任で冷たいことではないだろうか。
台湾に関わるようになり日本統治時代に対する「統治と恨み/謝罪と賠償」という一般的な対峙の仕方ではなく、台湾人のお互いを繋ぐ文化へのリスペクト、歴史を乗り越える逞しさから、まさに「文化の力」を感じた。

それなのに、そこに対しての日本側の返答があまりに乏しいことへ私は強烈な違和感を覚える。
このまま放っておいて自分と今だけ良ければそれでいいなんて、そんな構えのままでいい訳がないだろう。それが民族としての責任、文化に携わる者の矜持というものではあるまいか。

文化を通してならば、歴史や国家や政治を超えて、再び手を携えることができるという確信を私は台湾から教わったのだ。

我々の世代が文化活動を通し、歴史と記憶を紡いでいく中で行っていかなければならないのは、まさに「東アジアの和解」であると思う。
東アジアの和解とはまた大上段に構えたと思う人もあるかもしれないが、むしろこれは軍事的視点が入り込む政治や国家では”お花畑”と称され中々持つことができない、文化の視点、責任であると私は位置付けている。

我々、文化に携わる者だからこそ持てる視点から、時に時代を牽引し社会に貢献できることもある、それが文化の力であると私は信じる。

私の人生において台湾における日本統治時代を起点とした活動はまだ始まったばかりだが、私は生涯を通じ、この歴史と記憶から新たな文化の礎を東アジアに築いていきたいと誓い心を燃やしている。

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