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日出づる国に思いを馳せてみた🌞

どういうわけか最近は文章ばかりやたらと書いている。
では本職の作品制作の方はどうかというと、こちらはさっぱりである。やる気が出ない。手が動かない。楽しめない。

思うにこうしたことは度々あるもので、一年に一度は必ず訪れる、思考をまとめる時間なのだ。
今年は年始から早々ぶっ飛ばし気味で走り続けてきた。制作しながらも色々と考えているので作品発表とはまた違う形でのアウトプットが私には必要なのだ。

大概、内容はここ最近の、こんな感じになる。
こうして見てみるとアウトプットに次ぐアウトプット。今は言葉が出る時期だが、手がノッている時は新しいビジュアルが次々と湧いて出てくる。

ではインプットはいつやっているのかというと、日常様々、時々で細切れながら全力で目に手に触れる全てのものを感じている。
中でも自然に触れることと旅行は大事だ。畑と山歩きは欠かせない。時々人に会うのも楽しいと感じる。
メディアはvideonewsとサメジマタイムス、長州新聞、百々峰便りを見るのが主だ。支持政党はれいわ新撰組。自称リベラル。温泉・風呂好き。

というわけで、今日は愛国心について考えてみたい。
愛国心といえば安倍晋三。安倍晋三といえば反中・統一教会。つまり宗教右派。宗教右派といえば日本政治の主流。日本の主流は愛国心に疑問符が付く。

上記のように考えてみると現代日本における愛国心とはまた非常にあやふやで危ういものであると思われる。
安倍政治で顕著になったものは色々ある。思いつくものを挙げてみると、まず超新米。なんでもかんでも新米。忖度しまくり。米国が言うことには何でも追従。政治もカネも米国に差し出す対米献上外交。対して物凄い嫌韓、嫌中。完全敵視。得意な悪口は共産党と日教組。そして国内で意識的に分断を生み出し対立軸から自らの安定を創出。一言でいえば「馬鹿な民衆を利用したセコい政治」。安倍政権になるまではこんなに右翼左翼で明確に分断されていなかったし、そもそも右翼も左翼も会話やメディアで言葉自体が使われていなかった。加えてネトウヨ、パヨク、ウヨ豚など一群の人々の呼称が生まれた。経済政策は結果的には失敗。三本の矢とかいってぶち上げて審議し実行段階になると何の変化も起こせずハリボテ化するのは既に状態化。何でも閣議決定で強行採決。ネトウヨ動員、メディア支配を積極的に行うことで国民の右傾化と支持率維持を実現。

こんな感じではなかろうか。あ、あと国会で120回以上嘘こいたとか。まぁ、瑣末な話ではあるけれど。問題はそれが許される国会であり社会であるということ。

上記のように宗教右派が骨格の安倍自民党だったが、それは今でも変わらない。だから現在の話をするためには、やはり安倍政治まで戻る必要があるわけだ。
故安倍晋三元総理。彼がどういった政治信条であったかは関係ない。所詮彼とてただの神輿だし。それよりも自民党としての総体や統一教会のスタンスの方が我々の市民生活にとっては現実的な話になる。それでいいのか?とも思うけど、そんなことで我々の税金の使い道は決められ、ジャブジャブとそれぞれの関係先や天下り先に流れて中抜きされて機能不全に陥っている。それが現実だ。

しかし、そんな主流派である自公連立政権は宗教母体で右派なのだ。簡単に言えば、神様を主体として拝みながら排外主義。でもカネが一番。つまり大日本帝国とさして変わらないのだ。天皇を神として国民は神に仕える子供達であり、大日本帝国から外は全て敵なのだ。そんでもって日本民族が地球上で最も優れている!とのたまって憚らない。でカネが一番大事。
ホモサピエンスは一種類でしかないんですよー、と教えてあげたくなる。

我々人類の個別性は肌の色や骨格などの見た目と気候風土や歴史に根差した固有の文化だ。それらはどれも尊敬されるべきだし、優劣はお門違いの目線に他ならない。

では愛国心とは何であろうか。
固有の領土もホモサピエンス的に見れば何も存在しないが、実際には言語・文化・習俗の異なる人々の居住面積ごとに「国家」なるものが規定されている。国家は国民の集団だ。すなわち既に馴染み深い国民国家である。

この国民国家、実は戦争マシーンと言われている。国民国家以前、要するに権力者の領土争い華やかなりし頃、領土争いにおける優位性を獲得するために創造された「我々」の意識体それが国民国家である。具体例をあげると、ナポレオン戦争当時、兵士は傭兵が主であったところナポレオン軍は「我々」という共同体のために戦う国民軍だったがために強かった。戦いに主体性を持った兵士たちなのだから当たり前だ。敗戦濃厚となりしも逃げたりはしないのだ。なぜなら「我々」のために彼らは戦うからだった。

これを契機としてヨーロッパでは国民国家が主流となっていく。
日本でも江戸時代まではネイションステイトであったものを明治維新を起こして廃藩置県を断行し国民国家に移行した。
その後、敗戦から現在に至るまでは推して知るべしだ。

今の日本国内の主流派が主張する内容の一つに「自虐史観」なるものがある。この自虐史観の主張を元に歴史修正主義者が存在する。
彼らは主に大日本帝国時の歴史を紐解き、当時の蛮行や残虐行為として位置づけられているものを一つ一つ否定して周り、大日本帝国の完全肯定を目指しているように見受けられる。代表的な主張は南京大虐殺は無かった、歴史的に日本人がやった重大犯罪は日本人を騙った朝鮮人の仕業だ、関東大震災における朝鮮人への暴行や虐殺は無かった、などである。

驚き以外とくに感想はないが、しかし考えてみれば火のないところに煙は立たない。
ここは文化に携わる者として中道解釈を披露すべきだろう。

まず自虐史観なるものは存在するだろうか。たしかに戦後から学生紛争、その下くらいの現在60代の方々の間ではそうしたものもあるかもしれないが、現在38歳の私からしてみれば果たしてそんな歴史観はあるかしらと疑問に思う。
無論のこと、政治に携わる人々の高齢化は甚だしく、女性の活躍がゴマ粒以下であることも関係しているだろう。

しかし未来を作るのは我々だ。いや、我々とて既に終わりが見えている。未来は今この瞬間、この世に生まれた赤子の手に握られている。
そんな我々世代にありもしない歴史観を振り回して根拠のない日本万歳をがなり立てられても困惑するばかりなのである。

さて、文化に携わる者としての私は大日本帝国についての戦争犯罪やその捏造については、どちらも主張があるのだからどちらの主張も受け入れたらいいと思う。
完全なる加害者も被害者もいないだろう。それぞれに理由があったのだろう。
真偽の怪しい記憶や記録なんぞで生きてもいない人々のあれこれで現在に生きる我々が歪み合いあまつさえ争いまで起こしてしまうのはあまりに非生産的な行いであり選択ではなかろうか。
それに例えば南京大虐殺の記念館で埋まっている人骨のDNA鑑定させろなど、死者を掘り起こすこと自体が現代に生きる人間としてナンセンスだし、まぁ、そもそもそれを見世物にしていることもどうかと思う。

大事なことは死者への弔いであって、未来に対し同じ人類として手を携え生きていこうと努力を重ねることではないだろうか。

それぞれの言い分はそりゃ分かる。
あいつが攻めてくるとか、あの野郎にしてやられたとか騙されたとかで恨む気持ちも憎む気持ちもよく分かる。
それを元に歴史を見てウン百年前前からの恨みを持ち出す気持ちも理解できる。
しかしそれでも、それでも我々は仲良くしなきゃいけないし、戦争をしなくてもいい世界を作る努力を止めても諦めてもいけないのだ。

どこの文明も言語も素晴らしいし尊いものだ。いかに多様性が乏しくなったと言えど、まだこれだけそれぞれの地域で言語・文化・習俗が残っていて、個別に発達してきたことの奇跡をまず人類全体で祝福すべきではないだろうか。
現在にまで残っている我々の文化を、それを楽しめるという感性と繋がりをこそ誇り共に祝福するべきではないだろうか。

なにも国家が戦争マシーンだからって解体しろとまでは言わない。まぁ個人的には藩政くらいの規模の方が面白いに決まっていると思うけど。

「我々」の規定、その紐帯の保持が外敵への危機感でしか持続可能でないというのは残念な思い込みだと思う。
たしかに、そもそもが戦争マシーンであるから外敵への備えとして「我々」意識が必要なのはよく分かる。しかし、我々が我々であることを共感し合えることのもう一つの力を忘れてやしないか。
それは文化だ。同じ歴史的背景から同じ言語感覚を持っているからこそ、同時代を生きる近しい人間の表現が理解できるのではないか。その「我々」が共有できるからこそ、同じホモサピエンスとしての他者への理解も我々同士の理解と同じものとして拡大理解することが可能なのではないだろうか。

そうしたら、そこで初めてルソーの「ピティエ」が登場できる。猿と類人猿の差である共感だ。痛みを分かち合える、相手の気持ちを慮ることができる、我々の愛しき能力、共感だ。
我々は小さな範囲から拡大して大きな範囲まで共感の幅を広げることができる。
文化は遠く離れた地域同士の間でも共感を生む。新しい解釈もまた受け入れられ新たな価値観を生み出し、混ざり合い、真に多様性を基盤とした理解と共感が、文化の力でこそ育まれるのだ。

そのために、文化は共感をベースに組み上げられなければならない。また個別の表現から何が共感できるのか、作品と自分との間の共感や共鳴を観察しなければならない。それが鑑賞行為である。

さて、ここで冒頭の愛国心に戻ってみよう。
愛国心とはそもそも国民国家という幻影を礎にしているため実に空虚な言葉である。
しかし愛国心という言葉が持っている「我々」の連帯への呼び掛けを無視するわけにはいかない。
国家という概念は斯様に虚しい響きを持ってはいるけれど、同じ言語・文化・習俗を背景とした集団が「我々」という認識、共感を持てるということも事実である。

その「我々」への認識と共感を元に全人類へと「我々」の範囲を拡張することも人類にはできるはずだ。
つまり、愛国心なるものが虚構でなく可能であるものだとするためには、愛国心もまた拡張し、人類としての地球愛、人類愛にまで拡張できなければ、その根本に置きたいであろう「我々」意識の紐帯はやはり虚構でしかなくなってしまうのだ。

外敵、脅威から「我々」を守るためではなく、「我々」が真に平和と恵みを享受し共存共栄していけるための叡智を共有し未来へと紡いでいくのが、真に真なるヒトの定めであると私は思う。

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