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生きていくために必要なイニングがある。

長年、勤めてきた会社を退職した。

確かに仕事がきつい時期もあったけれど、定年まであと2年半。

なんとか勤めてこられた34年間だったし、

さすがに早期退職受付最終日はぎりぎりまで悩みに悩み、

眠れずに考え抜いた明け方に「やっぱ辞めるわ」と妻に告げた瞬間、

思いもよらず感情があふれ出し、

つい涙声になってしまった。


1週間のうちに5日も勤務し、

すなわち人生の5/7を費やして通い続けた会社は、

ある意味親より、家族より、誰よりも時間を共にしてきてしまったわけで、

良きにつけ悪しきにつけ私という人格の今を形成した。


そんな会社を辞める決断を下すのにはやはりそれなりの覚悟がいったし、

自分に対しての大義名分も必要であった。


とはいえ私はまったくデキの悪い社員だった。


ある調査によると、

今どきの中高年サラリーマンが仕事に「生きがい」を感じている割合は

ざっと15%だとのこと。

(※サラリーマンの生活と生きがいに関する調査: 年金シニアプラン総合研究機構 https://www.nensoken.or.jp/wp-content/uploads/NKEN09_030.pdf参照)

個人的には15%もいれば御の字ではないかと思っていて、

正直に言うと、もう片方の85%側にいた私にとっては、

もし会社の仕事自体を本気で「生きがい」だなんて感じられるのなら、

どれだけの僥倖なのだろうとさえ思っていた。


私はそもそも就職するのがいやでいやで仕方がなかったクチで、

入社が決まったのを機になかば捨て鉢のような気持になって

当時打ちこんでいた音楽の楽器いっさいを

自宅の納戸の奥のほうに放り込んで鍵を閉めた。

以来楽器には触れてこなかったいっぽう、

仕事に対しては最低限必要な「責任感」以上の情熱は持ち合わせず、

辞めるにあたっても「長年会社に尽くしてきたので、そろそろ」などとは

冗談にも言えなかった。


「生きがい」を感じずにいても十分仕事はできるわけで、

人生の機微を感じながら泣いたり笑ったり、家族を養い、

新橋の居酒屋で同僚と与太話をかわしつつ、

そこそこ幸せに生きていけるものなのである。


ただ「そこそこ幸せ」だったということは、

「そこそこ不幸せ」とも思いがちでもある。


いま自分がたずさわっている作業が、

全く本分ではないと考えることもある。

会社員である限り、

会社の望む方向を向いて自己のやり口や時間を制限し、

上からの指示に従い、仕事に邁進せざるを得ない

(少なくともそう見えるようにはしなくてはいけない)。

ときおりそれが許容できぬジレンマとなり、

ストレスで体を壊しかけたこともあった。


ところが、会社員としてある程度先が見えてきて、

管理職として以前ほどの責任を

負わされるようなこともなくなってきたときに、

見えてくる風景が少しずつ変わってきた。

ㇲ(素)の自分と、会社の自分を

うまく両立させて生活することができるようになったのである。

ㇲの自分とは周りを気にせずおのれの思うこと、好きなことのみを

追いかける自分である。

私の場合、たとえば入社以来さわっていなかったギターを手にしてみる。

ついでに図に乗ってバンド活動も再開する、

(昔は恥ずかしくて通えなかったけれど)ボーカル教室にも通ってみる。

音楽に限らず、かつて自分を構成してきた趣味や嗜好が

新鮮なカタチで目の前に陳列され、

それを純粋に楽しめるようになったのだ。


なんでこの楽しみを今まで封印していたのだろう。


たとえは悪いが、探しても探しても見つからなかった遭難者の遺体が

春になって雪が溶けて労ぜずに見つかるようなものだ。

ただ、こちらが本当の私で、

会社員時代の私は借りものだったのかというと、

そういうふうには思わない。


今だから感じるのであるが、

案外自分は「本来でない自分に向き合う生活」を

楽しんでいた気がするのである。

「生きがい」ではなかったけれど、

あまり望まない環境に置かれて、

さまざまに出される無理難題に向き合い、

悲鳴を上げつつ露出してくる見たこともないおのれが

わりと好きだったりしたのだ。

要するに会社員であった月日は、

新しい私を作り上げた時代だったのだと思う。

それは会社がもたらしてくれた

人間として極めて必要な成長であったのではないかと思うのだ。


今回会社を辞める決心した私の最大の理由は、

今後の人生は、もう一度この「ス」のほうの自分に向き合って

そこからビジネスを起こしてみたいと思ったからである。

いま悪戦苦闘をしはじめたところだ。


人生100年時代という。

一生を四季にたとえて定年後を実りの秋と表現する人もいる。

野球好きのおっさんの私としては、やはりこういう表現を使いたい。

「人生のオモテの攻撃は終了。これからウラの攻撃がはじまる」。

そう、どちらも攻撃でありたいのだ。そしてどちらも必要なイニングだ。

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