道を切り開く先駆者、あるいは伝統文化の継承者として | 書道家 岩尾諭志
地方においてアーティスト活動を行うのは容易いことではない。そう考える人が多いのではないだろうか。ましてや、主軸の活動一本だけで収入を賄うとすればなおさらだ。都市部のほうが圧倒的に人との出会いも情報量も多いことは事実だ。それに伴い、私たちが口々にする「アート」「芸術」「文化」というものに関心が強く、そこにお金を出そう、支援しようという人も多い。
しかし、そうした一般的なイメージと異なり地方で活躍するアーティストたちはいる。彼ら彼女らは日本各地に点在し、その土地柄、地域に流れる時間と融合しながら自身の活動リズムを築いている。
ほかの地域と同様に、この宮崎にもアーティストはたくさんいる。絵画や造形、映像や写真に音楽までその分野はさまざまだ。宮崎を拠点にしながら県内外、海外においても活躍している人もいる。
そんななかで「書道」を自身の領域とし、型に囚われないパフォーマンスで人々を魅了する書道家が宮崎にはいる。衰退する書道文化に興味を持ってもらうと同時に、アーティストが“宮崎でも”充分に活動できる環境をつくりたいという。
「自分はメインプレーヤーではない。けれど、メインプレーヤー以上に結果を残さないといけない」
そう語る彼の真意とは。
興味を持ってもらうには「作品」より「所作」を見せよ
ある夏の日の夕方、その人は現れた。挨拶を交わしながら世間話をする。そのちょっとした時間のあいだに彼の人懐っこい表情、快活に喋る姿が印象的に映った。作品に集中しているときの顔つきと異なり朗らか。いつの間にか、こちらも心を許してしまい彼の前では何でも話してしまいそうになる。
書道家 岩尾諭志さんはそんなズルいところを持っている。自身も「なぜか『岩尾くんは私が支えないとダメなんじゃないか』と思わせるところがあるみたいで。幼いときからよく世話されたり応援されたり。変な人に当たることもなく、すごく人の運がいいんです」と話すくらいだ。
諭志さんは書道家として「書」を中心に作品製作のほか、書道教室、企業のクライアントワークなどを行っている。幼少期より絵に親しんでいたこともあり画家としても活動。その才を生かし「書」と「絵」を組み合わせた作品も発表している。
諭志さんの持ち味といえば、即興で行われるパフォーマンスにある。たとえば、宮崎市の繁華街「ニシタチ」で飲んだことのある人はピンとくるかもしれない。繁華街が人で溢れる夜になると街中の一番街商店街にて書の路上パフォーマンスを行い、訪れた人の注文に応じて即興で作品を書く。書が出来上がる過程、諭志さんの所作に見入る人が後を絶たず、気づけば人の輪に囲まれている。
即興のパフォーマンスはほかの場面でも好評だ。個展の場合、とくに家族連れであれば親も子どもも思い出づくりになる。仕事の打ち合わせ時の名刺交換のとき、空白の名刺に相手の名前を達筆な字で書き、一気に打ち解けることもある。
「子どものころから書道を学んできた人間として、書き手がどういう筆使いをするか体感してもらいたいと思っています。出来上がった作品よりも、書く姿勢や手の動き、道具の使い方などを見てほしい。それらすべてに意味があって、書道に興味を持ってもらえる入口になりますから」
書道に救われた少年期。“心友”との約束を果たす青年期
岩尾諭志さんは1985年9月に宮崎市で生まれた。諭志さんが書道の世界へ足を踏み入れたのは小学3年生のとき。母に誘われ通い出した書道教室。幼い子どもから大人まで、正座をしてじっと字を書いていた。当時いじめに遭っていた諭志さんにとって、その場にいるみんなが対等であることは心の救いに感じた。また、書に集中しきることで内面に生まれるゆったりとした時間は落ち着きを与え、気持ちをリセットするのに役立った。
「自分っていう人格を保てたのは書のおかげです。自分の感情を持っていく場所がやっと見つけられた」
中学・高校では書道部に入った。高校では顧問教諭が非常勤講師だったために活動できていなかった書道部を、1年生から部長を任され率いた。母校初の県大会上位や全国区の書道展で結果を残した。そして、なんと師範免許も取得する。
「教えるとか面倒を見るってことが好きなんです。たぶん、子どものときから世話をされることに対する裏返しだとは思うのですが」
書に対する熱量は冷めることなく本格的に勉強するため大東文化大学の書道学科に進学。日本書道界の重鎮がいる環境で、書道の文化や歴史など教養を深めた。そのまま書を極める人生を送るかと思いきや、23歳ごろから1年間は書が書けなくなってしまう。深く悩み「書の人生を止めよう」と思ったほどだった。
しかし、ここで奮起する出来事が起きる。25歳のとき大学時代の“心友”を癌で亡くしてしまうのだった。
「大学時代に人間不信になっていたあいだも、いつも気にかけてくれていました。そんな彼ですら信じられない時期もありましたが、遺作展でご親族にお会いしたときに『あなたが岩尾さんなのね。実家に帰るといつも岩尾さんの話をしてくれましたよ』というのを聞いて、自分は何をしているんだ、そんな純粋な想いを信じられなかったなんて! と込み上げるものがあって。
その心友と『俺、書道で世界に行く』って約束をしていたんですよ。彼は『俺はお前のビッグマウスが好きだ。諭志ならやれるよ』と言ってくれていた。これはやるしかないって覚悟を決めました」
今の状態では世界へ行くこともできない、初心に戻り、最初から叩き直そう。
そう考え、29歳までの期間を結果出すための準備の時間と定めた。飲食店に勤め生活の糧を得ながら、「教えることが一番勉強になる」と書道教室で講師をしたり書道にかける時間を増やした。29歳になるといっさいの仕事を辞め、ほぼ書道だけで暮らしていく決意をする。
その後、全国でも珍しい「書道喫茶」を街中に開いて話題となり、各メディアの取材も入るようになった。並行するように繁華街での路上パフォーマンスもはじめ、まさに岩尾諭志の名を広めるきっかけとなった。
そして、2018年7月にはフランス・パリで開催のJapan Expo19「伝統・地域文化パビリオン WABI SABI」に参加。「書道で世界に行く」という約束を果たすのだった。
書道文化の火を絶やさない。プレーヤーである以上に大切なこと
書道家としてのこれまでの活動、海外での経験から諭志さんが目指したいことも明確になってきた。
現在、日本の書道文化は国の登録無形文化財に登録されている。尊い文化として保存されていく動きがあるなか、日本の書道人口は減少傾向にある。諭志さんによると、デジタル文化の興隆もあり発祥の地である中国のほうが文化の衰退が激しいという。綺麗に字を手書きできる人は「ラオシー(老師:先生)」と尊敬される。
また、Japan Expoに参加したことで、西欧では書はインクアートの一部として認識されていることに気づいた。書に重要である「墨」と「カーボン(炭)」の区別があるわけでもなく、また、日本人が二度書きに抵抗を感じることや、「書に気持ちが乗っかっていく」というような精神性が関わっているとも多くの人が感じているわけでもない。
「日本や中国では書道が高尚でクラシカルな芸術と捉えられがちです。また、西欧ではアートや文化としての捉え方に違いがある。こうした現状があるなかで国内外問わず興味を持ってもらい、書道文化を残していくためには、書やその道具の文化・歴史的な背景を説明できる人が必要です」
諭志さんは現場に立つ人間として、まさにその役を担っている。発想はグローバルに、活動はローカルに。自らが先頭に立ち、書道家として、一人のアーティストとして、拠点である宮崎で製作やパフォーマンスを行い実績を残し、収益を生む。そこには宮崎でアーティスト活動ができることを証明したいという想いもあった。
「能力がある人たちは県外へ行く傾向が強く、それを否定するつもりはありません。でも、宮崎は競合になる人がかなり少ない。名前を知ってもらう、活動するっていうのが実はやりやすい土地なんです。宮崎でも稼ぐことができて、活動ができるよってことを実証していきたい。人を導くためには説得力が必要になります。だから、僕はメインプレーヤー以上に結果を残していかないといけないんです」
自分が宮崎でできることを探り道筋を示す。成功も失敗も教訓としてほかのアーティストが参考にしてくれればいい。「自分が与えたきっかけでめちゃくちゃ熱を持ってくれると、こちらも熱くなれる」と話す諭志さんの顔は本当に嬉しそうだ。
「現在確立されている芸術文化は、自分と向き合う時間がゆったりあった時代の人たちが練り上げていったもの。古の、その源流をつくった時代の人たちには僕らはきっと敵わない。今は情報が氾濫して時間もあっという間に過ぎていく。そんな時代だからこそ、目の前でじっくり時間をかけて出来上がっていくものを見せていきたいし、その美学を体感してもらいたいと思っています」
(取材・撮影・執筆|半田孝輔)
(写真提供|岩尾諭志、中村諭)
(協力|熟成炭火焼S)
https://www.instagram.com/jpcalligrapher_satoshi/
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