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連合赤軍事件研究NO. 7

連合赤軍結成についての合意が取れたあと、指導部会議は雑談していた。そのうち、指導部で唯一独身だった坂東の結婚が話題にのぼる。
坂東が「別に、結婚しないと決めているわけではない」と答えると、永田が「我々になったのだから、坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」と勧めた。
このあと、永田は伊藤を呼び出し、坂東との結婚を説得する。伊藤はすでに片思いの相手がいたので断ろうとしたが、結局坂東との結婚を受け入れたようである。永田自身も組織の命令でいやいや坂口と男女関係を結んでいたが関係を結んだあと愛情をもつようになったことと、連合赤軍結成をたしかなものにしたいとの思いから、永田は伊藤に坂東との結婚を迫ったのだと考えられる。恋愛感情も組織の制限下にあるべきだとする永田の考え方は、自由恋愛主義の大槻とは嚙み合わず、大槻は永田のことを「恋愛をしらないひと」と陰で語っていた。永田の女性観はいわば「男もすなる革命といふものを女もしてみむとてすなり」という領域に留まっており、前回記した森の偏った女性観を訂正することもなく、場合によってはさらに助長していくこととなる。
指導部会議のあと、全体会議が開かれた。新党の結成を下部メンバーに伝えるためである。永田・森の演説のあと、メンバーは各々新党結成を歓迎する発言をした。小嶋は自分の番が回ってくると、

「二人の時に立ち会っていてうれしかった」
といった。この時、それまでオブザーバーのようにしていた森氏が、急に身を乗り出して、
「ちょっと待った。そんなこといってよいのか」
と強い口調でいった。小嶋さんは、ビクッとし、
「よくなかった」
と答えた。

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第十章 「共産主義化」の幻想
134ページ

「ふたりのとき」とは勿論早岐・向山殺害のことである。森はすでに小嶋を批判していたが、小嶋の上司である永田に話すだけで、小嶋本人には直接批判していなかった。一応、別の組織の人間であるので気を使っていたのであろう。しかし、新党結成が決まった以上、その制限もなくなったので、森は革命左派メンバーを直接批判していくこととなる。

意見書問題


12月21日夜、上京していた岩田が、加藤能敬を連れて戻って来た。能敬は川島陽子とともに逮捕されてしまったため、永田らは歓迎した。しかし、能敬は、小屋に入って早々、「問題がある」と言って、『意見書』を読み上げ始めた。この『意見書』の内容とは、

「石森(大槻さん)、北(岩田氏)は指導部に絶対的な信頼をおくものである」で始まり、「海老原(前澤氏)、平野(伊藤さん)同志が突如十二・一八集会に来た。集会の主催から革命左派の名をおろすこと、『革左の基調報告』の提出、集会において発言することを求めた。それに反対した合法部に『分派活動』、『陰謀』という言葉で批難した」ことを問題とし、「革左が集会の主催となっているのは柴野同志が革左党員であったので当然である。更に、集会はあらかじめ合法部が指導部と連絡をとりつつ準備されたものであり、合法部が勝手に集会を左右したり、集会に手落ちがあったとは思われない」と主張していた。そして最後を、「今こそ、獄中、合法、非合法の連帯を強化せねばならぬ。従って、石森、北は指導部が合法部に対して、海老原、平野同志を集会に派遣し、集会を混乱させ、『分派』『陰謀』等と決めつけたことを自己批判すべきと考え、自己批判を要求するものである。建軍武装闘争の更なる発展を願って。この意見書は楯(加藤氏)、和田(中村さん)同志の同意を得ている」

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第十章 「共産主義化」の幻想
135ページ

というものであった。
能敬は釈放後、柴野追悼集会の手伝いをしていた。合法部の苦労を理解していて、前澤と伊藤による妨害を受けているところを見ており、指導部に苦言を呈したのである。ほかの大槻・岩田・中村ももともとは合法部で活動していたため、賛成したのであろう。
あくまで強引な指導部に苦言を呈したのであるが、永田と森はそうは取らなかった。
永田にとって能敬はいくども指導部の方針に反対してきた目の上のたん瘤のような存在であった。
一方、森はこのとき能敬とは挨拶を交わした程度で、個人的な感情を持ったとは考えにくい。しかし、両派の統一において主導権を握ろうとしてきた彼にとって、下に見てきた革命左派のメンバーを批判することは、主導権を取り戻すことにつながるという思惑があったと考えられる。すでに永田は森の理論に傾倒し始めており、彼女に意見してきた能敬を批判することで、永田の信頼をさらに得るだけでなく、革命左派全体の力を削ぐことにつながるという判断があったのではないだろうか。
この意見書問題は永田が能敬と岩田を言いくるめ、自己批判させてなんとかおしとどめた。岩田はすぐ自己批判したが、能敬はなかなか納得しなかった。このことも森は観察していた。
この途中、任務で外出していた山本が戻って来た。妻と子どもを連れてきたのだ。さすがに妻子まで連れてくるとは思っていなかった永田は慌てたが、いまさら帰すわけにもいかないということで、山本夫人と子どもの入山を認めた。
この騒ぎがひと段落したとき、永田は能敬と尾崎の雑談を耳にしてしまう。

加藤氏が、
「完黙(完全黙秘)したといったけれど、実は刑事と雑談したんだ」
といっているのが聞こえ、続いて尾崎氏が、
「高崎に帰る途中で権力に尾行されていると心配したので、山の全員が逮捕されることに備えてKさんに銃を埋めてある場所の地図を渡たす手はずをとったんだ」
といっているのが聞こえた。山本氏の夫人と子供のことで頭がいっぱいだった私は、これにびっくりしてしまい、加藤氏と尾崎氏に強い口調で、
「なに!雑談したという報告をどうしてしなかったの!銃を埋めてある場所の地図をKさんに渡したことをどうして報告しなかったの!銃を埋めてある場所をKさんに教えるなんて大問題よ!」

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第十章 「共産主義化」の幻想
137ページ

彼ら活動家にすれば警察の取調べに応じるにはたとえ雑談であっても許されることではなかった。実際にはそんな反抗的な態度を取っていれば、能敬は釈放されることはなかったであろう。組織のために一刻も早く戻りたいという思いがアダをなした形である。
尾崎の問題は当時すでに永田が敵対視していた合法部のKに銃という革命左派の重要な物資の場所を教えてしまったということに他ならない。だいたい「山の全員が逮捕されて」のところでもその悲観的な予測は、永田からすれば許せないものであったであろう。
永田は激怒したが、ふたりに自己批判を求めるだけでとりあえずこの話は終わりにした。この革命左派内の不協和音を虎視眈々とみていたのが、森である。
次回からは森がどのように能敬や小嶋を追求していったかについて記していく。

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