虚構

財布を盗まれた。どこかに置き忘れて、とかカバンから落としてとかの可能性は0と言い切れる。盗まれた。上野のスターバックスで、トイレに2回、カバンの中に財布を入れたまま立ったときに。なぜあの相互監視の中で盗めるのか、盗むことができるのかが信じられなくて、他人や社会に対する潜在するフラストレーションが一気に沸点を超えてしまった。本当にもうお前死んだほうが楽だよと言われた気がした。

日々、毎日生きるたびに虚しいポイントが溜まり、こんな虚しさ蓄積型の人生が仮にあと50年、60年も続くかと考えたら現実的に苦しくなって、9月に猫を飼った。3年前、会社を辞めたときにあった100万円以上の持ち金は4ヶ月のニート生活と東京への引っ越し、転職費用でほぼ0となり、そこから2年、また100万近くになった持ち金を見て、このままちっぽけな持ち金と共に日々虚しくなっていくだけの不安で希望がない、やりたいこともろくに探せず我慢という名の生きるだけの人生が、明日終わったら死に際に何を思って死んでいくんだろうという想像に耐えられなくなった。金を使って、明日死んでも多少でも虚しさが少ない状態で死ねるようにとようやく小岩の木造アパートを出た。家賃9万円の鉄骨鉄筋マンション。5.5万円で1LDK新築に住んでいた札幌時代がベースにあるのでいまだに受け入れていないが、小岩で死ぬよりマシだなと決意してからのここ6ヶ月、本当にお金を使うようになった。正確に言えば、今まで金を使うことを我慢していた8割のものに金を払うようになった。結果、残高はついに5万円になった。
そして2万円を引き出したその日に財布ごと盗まれた。この出費は、「我慢していたものに対する出費」ではない。2日経った今も、例えば目の前で急に立ち止まる人間に対して上段回し蹴りを100でくらわせたいほど行き場のない怒りで頭が普段よりさらにおかしくなっている。


金の話や虚しさの話を文字で放出するくらいしかガス抜きができないわけだが、本当に虚しいのは、人間関係のことです。
これ次第でガチで我慢する関係性を0にしようかなと考え、親に連絡をした。すると案の定説教が始まり、電話を切ってブロックした。

大学を卒業してから5年間、教育プランナーという仕事をした。自分の親がこんなんで、本来は唯一無条件に味方であるはずの両親という存在が、俺みたいなガチャ外し生誕組にとっては最大の敵になる。その時点で我々組の人生は死ぬまで満たされない。つい数年前までは我慢できていた、「他人の家族話」が耳に入ってくると、その度に壁をぶん殴りたくなる衝動にここ最近は襲われるようになった。他人の家族問題の溝は年々埋まってきている反面、自分はそれと反比例してどこまでも離れていく。お金なんて、知人に借り、消費者金融に借り、闇金に借りて一時的に増やすことはできる。しかしながら、やはりこの「親が最大の敵」という事実は年々年だけとっていく「こども大人」を無限地獄へと追いやる。世の中で起きる悲しい事件や人間が転落していく様には、必ず親から与えられなかった愛が関係している。22から教育プランナーをやって、良くも悪くも日々リアルな家族模様の一端に触れることでそれが肌でわかってしまった。

親殺し、子殺しのニュースを目にすると、今は本当にちょっと未来の自分の世界線のように感じてしまう。先ほど届いた母親からの2枚の手紙は、本当は一瞥もせずゴミ箱に捨てるべきなのだが、悲しいことに、一瞬その文字の一部を目に入れてしまう。すると「そもそもキャッシュカード…」という文字がはっきりと目に映り、その瞬間にゴミ箱に捨てた。「失望しないためには他人に期待しないこと」という言葉は、あくまでも「他人」にである。血縁関係というのは本当に悲しいもので、血のつながった人間は他人であっても他人ではないのである。きっとこれまで無数に存在してきた極悪人も、最後の最後まで肉親への期待には逆らえなかったんだろうなと自分を俯瞰で見ることで感じてしまう。

隣で猫が寝ている。猫は産みの親を忘れるらしい。生後2ヶ月までは確かに肉親と共にブリーダーのもとで生活していたのだが、生後2ヶ月から7ヶ月の現在、そして死ぬ直前まで俺を親だと認識して死んでいくのだろう。ベタだが、この子が自分に体を預けて眠っている時に、幸せか?と聞いてしまう。猫を飼って初めて、自分の中に存在する他者への優しさを包み隠さず言葉で行動で表出することができた。人間相手には、30年生きていても誰にもできなかった。どうしても人に優しくできないのは、自分が優しくされず生きてきたからだ。自分がされた以上のことを、他者(人間)にすることはできない。結局誰しもたどり着く真理として、どんなに金と時間を他者へ使っても、満たされることはない。それを、手元に残る金がなくなりそうになっていることでまざまざと実感させられている。こんなことは、資本主義社会になってからほぼ全員の人間が感じ、そしてこれから地球に数えきれない新しい生命が誕生したとて、誰しも同じことを感じるのだろう。自分で生まれる場所を決められない時点で、全部運なのである。何不自由なく生きてこられた人間ほど、誰にでもオープンに悩みを話すことができる。こっち側の人間は、よっぽど深い関係性がある人間にしか、内面を話すことができないのはそういう仕組みになっているからで、その人の性格がどうこうとかいったレベルの話ではない。

何はともあれ、どれだけ今更内面を放出したところで、自分の内面を抑圧してきた大人は満たされることがなく、虚しさがより鮮明になるだけだ。幸せは他人と比べるものではない。といった類の言葉で救われるような人間は、大した闇がないだけの幸せな人間だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?