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19 供養のメカニズム/葬式仏教の世界観⑥

   供養という考え方も、葬式仏教を葬式仏教たらしめている重要な概念である。

  辞書によると「三宝(仏・法・僧)または死者の霊に諸物を備え回向すること」(広辞苑)とあるが、一般的には故人があの世で安らかでいることを祈る行為を供養と呼んでいる。

  ただ仏教における供養は、単に祈ることではない。我々生きている者が、この世で良い行いをして徳を積み、その徳を、あの世にいる故人に送るという仕組みになっている。単に祈ることとは違うのである。

  例えば曹洞宗の公式ホームページによると、「供養とは、施主が、仏さまに飲食や花をお供えし、また読経をすることによって、善根(良い行い)の功徳を積むことです。その功徳を回向(えこう:たむけること)することによって、ご先祖さまや故人に対し、さらに、すべての人びとの冥福を祈り、あわせて、自分を含むすべてのものが仏道を成就することを願うものです」とある。

  これによると、お供えをする相手は仏さまであり、お経を読むのは自らの徳を積むために行うということだ。そしてその自分が積んだ徳を、故人に送ることができ、それを供養というのである。

  供養は追善供養という言い方をすることもあるが、これは供養が「追って善を手向ける」メカニズムで成り立っていることを示している。

  ところが現実には、こうした仕組みはあまり正しく理解されていない。例えば、仏壇に手を合わせることで徳を積もうと考えている人はほとんどいないだろう。徳を積んでそれを手向けるということではなく、仏壇で手を合わせて祈ることそのものが、直接的に故人の安らぎにつながると信じているのである。

  お供えも、多くの人は、故人の好きだったものを供える。それは仏さまにお供えをしているのではなく、故人の霊にお供えをしているからである。

  これは仏教の教義としては、明らかに間違った考えである。

  しかし信仰というものは、理屈ではない。人間の内面から湧き出てくるもので、思考より感情に近いものである。それを難しい理論で説明されても、ほとんどの人は「何だかよくわからない」のである。

  人々の営みとしての供養はとてもシンプルで、故人が安らかであること、幸せでいることを祈るということである。それ以上でもそれ以下でも無い。それが葬式仏教における供養であるのだ。(続く)   

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