「エクリチュールについての変奏」(ロラン・バルト)を読みました。

こんにちは。4連休初日の夕方です。

昨日の自分が放り投げてしまった言葉を振り返って、削除したい衝動と軽く闘っていることろですが、、ここはひとつ頑張って乗り越えて削除せずに胸を張って生きていきたいところです。。(反省)

。。というわけで、今日はほぼ一日中本を読んだりごろごろしたり居眠りしたりしてだらだらと過ごしました。せっかくなので読んだ本について何か書こうかなと思います。

バルトの「断章としての身体」」(「ロラン・バルト著作集 8 「断章としての身体」、吉村和明訳、みすず書房)から、12「エクリチュールについての変奏ー『手によるエクリチュール』についての集大成的大論文」の部分を読みました。

「読んだ」といっても、本当に本当に本当に、何度も寝落ちしながら「ただただ読んだ」だけです。そんな「読み方」をして一体何が書けるのか?

・・そんな「読み方」をした、ということが書けるということでしょう。。


。。まあ、ええっと。とりあえず。


ロラン・バルトという人は、私がとても好きな、、1960年代~1980年代頃に活躍したフランスの思想家、というか、批評家です。なんていうか幅広い分野のいろんなことについてなんやかんや思ったことをすごくストレートに分かりやすく書くダンディなおじさん、っていうイメージかな。昨今流行り(?)の草食系文学イケおじです(笑)。

構造主義とか、記号論とか、モード批評とか、ファッションや広告メディア論なんかも書いてて面白い人です。一番有名なのは、私は「零度のエクリチュール」かなと私は思っているんだけど、もしかすると広告とかファッション系の人からすると、「モードの体系」の方が有名かな?

「零度のエクリチュール」は、私は頑張って何度か読み直しているんだけど難しくて、、あんまり理解できている気がしません💦翻訳の問題もあるのかも知れないけど、とても分かりにくいです。でもいつかここに感想文を書けたらいいなとは思ってます。

とにかく本当にいろんな分野に関してあちこちで書いてるんだけど、「エクリチュール」という言葉と、「テクスト」という言葉は特によく使われる。あと、私は「ロマネスクとしての批評」という言葉がとても好きです。「ロマネスク」については、、「ロマネスク」についてもいつかちゃんと読んでここでちゃんと書きたいなって思ってます。それはちょっとした私の目標っていうか、夢、みたいなものかも。

あ、そうだ。最初に書いとかなきゃと思っていましたが、今となってはだいぶ中盤になっていますが、私はまったくもってここら辺の分野に関しては、「ただの素人」です。だから、日曜日の夕方に「サザエさん」をみるように、連休の初日に「断章としての身体」をそこら辺にいるおばさんがだらだらごろごろしながら読んで、その感想をだらだらと呟いてるってだけのこと、つまりこれは「その程度」の文章ってことです。


で、この「エクリチュールについての変奏」についてですが。

「エクリチュール」という言葉をバルトはよく使う、とさっき書きましたが、ご本人も書かれていますが、どうやら多分、バルト自身「エクリチュール」という言葉に関して、その意味内容というか概念というか。所謂「シニフィエ」は意図的に曖昧で流動的なものとしてあえてあちこちで使っていたんじゃないかなと私は思っています。

因みに、「シニフィエ」というのは、、ネットで検索すればすぐに分かりやすい解説がウィキペディアなんかで出てくると思いますが、「記号論」の世界で「シニフィアン」という言葉とセットで使われるんだけど、せっかくなのでウィキペディアをひいてみますね。

「シニフィアンとは、語のもつ感覚的側面のこと」、「シニフィエとは、このシニフィアンによって意味されたり表されたりする概念ないし意味内容のこと」だそうです。つまり、「うみ」という言葉の文字や音声部分が「シニフィアン」、「海」のイメージや「海」という音声ないし文字によって伝わる内容のことを「シニフィエ」といいます(多分)。もともとはソシュールという人が言い出したとされる、「記号論」という学問の世界の言葉です。

、、まあ、そもそも「シニフィエ」と「シニフィアン」というものの関係自体、正確にイコールではない、「その関係性に必然性はない」わけだから、それはバルトの「エクリチュール」という言葉の使い方に限った話ではない、、ということなんでしょうけど。。

、、ってなお話を始めちゃうと私自身もわけが分かんなくなっちゃうわけなんだけど、、でも面白いですよね♪

ことばって不思議。


あ、で、「エクリチュール」という言葉。バルトの中でもその意味内容は時代やその時点で書いているものによって変わってる気がするのですが、更に他の人たちにとっての「エクリチュール」もいろいろだし、だから私も実際「エクリチュール」って何か?ってことはあまり分かってない気がします。私はどっちかっていうと「テクスト」的な意味に近い感じで捉えていたのかもな、って今日読みながら思いました。面白いですよね♪

で、やっと本文に関することですが。この「エクリチュールについての変奏」では、バルトは「エクリチュール」の「手書きの文字」という側面にフォーカスして、その歴史や展開を学問的なテイストで、バルトにしては淡々と書いてます。サブタイトルにあるように、これは「論文」なんでしょうね。

私は個人的にはバルトの「ロマネスク」的な、「記号の国」とかが大好きなので、この「エクリチュールについての変奏」はなんていうか。まあ、これはこれで面白いよな、って感じです。

因みに「記号の国」は日本についての「旅行記」みたいなものなんだけど、日本人の私からすると、、「蝶々夫人」の映画版、、っていうか、背中に「扇風機」ってプリントされてるTシャツを着ている強面のアメリカ人みたいな、、滑稽なところも多々あるのだけれど、バルトの、「そういう問題じゃないんだよ!だって日本への旅がとっても楽しかったから筆が止まらないんだもん!」感が炸裂しててトチ狂った感じが大好きです。あー。これもまたいつかちゃんとした感想文を書きたいな。


あ、でこの本のお話でしたね💦

ええっと、要はこの時代、例えばさっきのソシュールの記号論からもっと専門的な言語学分野の方の話題の中心は、「エクリチュール」=書き言葉に対して「パロール」と呼ばれる、言葉の「音声」の部分に注目した研究が主になっていたらしいんです。まあ、それは今現在の「言葉」に対する感覚にも引き継がれてますよね。私自身のここでの言葉の使い方にもそれは表れてるけど、基本、「話し言葉」を記録したりテキスト=データ化してコミュニケーションや分析のツールとして利用するために文字や書き言葉が存在する、って人々は捉えているわけです。

赤ちゃんの言語習得の過程のイメージからも、まあ、そういう認識になるのは自然ですよね。まず「話し言葉」ありきで、後からそれを「文字」にすることを学んでいく、って普通は考えますよね。

なんだけど、バルトはそれに対してモノ申してるわけなんです。「エクリチュール」っていうものは、「話し言葉」の後から付属的に作られたものなわけじゃなくて、それ自体、「書く」という手を使った身体的な作業によって生み出される、より豊かで神話的な、「芸術」のようなものがそこにはあるんだ、ってことなのかな。

「文字」を手書きで書くことって、最近めっきり機会が減ってしまってますよね。私はあまり字がきれいではないし、専らPCやスマホを使っちゃうし。

でもそういえば、何か文章ををちゃんと書こう、って思う時には、私は紙のノートに付箋をいっぱい貼ったり、ブレインストーミングみたいな図を書いたりします。結構その作業って楽しい。

それから本当にちゃんと内容を伝えたいって思って話をするときにも、私は紙にいろんな図、みたいなものを描きながら話す癖があります。お絵かきしながら話す、みたいな感じです。



ところで!!楽しいです♪好きなもののことを書くのって楽しい。

・・連休初日に気分復活出来てよかった。。



今日、この本を読んだのは、今日読む気分になれる本がこれだけだったからです。

以前にもちょっと書きましたが、最近無駄に落ち込みがちなことの、お仕事以外の要因として、今論文を書くために読んでいる資料がかなり内容が重いもので、、読んでいてしんどいのです。。

私が読んだり書いたりすることって、別に誰からも必要とされているわけじゃないんだし、だから書かなきゃいけないものでもないわけだし、やめちゃえばいいのに、、って思う。逃げちゃえばいいのに、、って思う。


こういう時、バルトとかデリダとかを読むと、なぜかほっとするんですね。。難しくって全然意味や内容が分からなくっても、なぜかほっとするんです。不思議。

音楽も、歌詞のあるものよりクラッシックとかジャズとかテクノとかそういう、、

繊細なんだろうな。そういう音や言葉って。だから安心して読んだり聴いたりできるんですね。

そしてそれを読んだり聴いたりしている間は落ち込むことを思い出さないで済むから。言葉の中に、音の中にいれば安心だから。彼らの音や言葉は私を私から守ってくれる。エクリチュールは多分、私にとってそういうものなのだろうなって思います。