「ふつう」や「みんな」に頼りたくなるとき
何か考え事をしているときに、ふと「ふつうはどうなんだろう」「みんなどうしてるんだろう」という気持ちが湧くことがある。
例えば、自分のお小遣いのこと。みんな自分で自由に使えるお金をどれくらい確保してるんだろう、とか。他にもいろいろ。仕事のこと。子どものこと。暮らしのこと。お金のこと。
「ふつうは」とか「みんなは」と考え出したとき、わたしは「おっといけない」と、頭をぶんぶん振ってその思考を振り払う。
「ふつうはどうなんだろう」
「みんなどうしてるんだろう」
そう思うのはたいてい、他人と自分を比較することで「自分の現在地」を知ろうとしているとき。世の中の平均や、周囲の人たちとの相対的な関係で「いまの自分」を測り、評価しようとしてるとき。
それ自体が悪いというわけではないけれど、わたしはかつて「ふつう」と「みんな」のことばかり考えて自分を見失ったことがあって、それ以来、ちょっと気をつけている。
「ふつう」と「みんな」を考え始めるとき。
それは「自分はどう思うか」という意見を持つことを恐れていたり、面倒に思ったりして、ラクな思考回路を選ぼうとしているときだ。自分の頭で考えるのって、大変じゃない? だったら "ふつう" をなぞっておけば、いいじゃない? って。
でもそうやって自分の頭で考えるのを放棄し続けた結果、自分がどうしたいのかも、何を感じているのかもわからなくなって「ぜんぜん自分を生きてる感じがしない」と絶望してからというもの、「これではいけないんだな」と心に刻んだのである。
ふつうはどうか、みんなはどうしてるのか。
そんなことよりもまず、自分はどう思うのか。
それは、自分のものさしを持つということ。自分の頭で考えること。考えることをあきらめないこと。自分の人生を生きるということ。
ふつうはどうであれ、みんながどうであれ、自分が「これが良い」と思うのならば、それでいいじゃない。それが、自分の人生のハンドルを、自分で握るということなのだと思う。
「ふつうはどうなんだろう」とか「みんなどうしてるんだろう」と考え始めるたび「いやいや」と自分にツッコミをいれて、自分で考えることをあきらめずにいたい。
ただし「ふつう」や「みんな」に頼りたくなった自分の不安や、心許なさも、無視せずに。霧のかかった薄暗い道で、迷いながらもひとり黙々と思考を進める自分を、労りながら。
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おわり
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