フクシマ宅建

自己紹介~日本一の商店街をつくると誘われてノコノコやってきた男~

 はじめまして。有限会社フクシマ宅建の岡田と申します。
 大阪生まれ、大阪育ち、2020年4月から岡山に移住することになっています。岡山駅西口に奉還町商店街があります。「奉還町商店街を日本一の商店街にしたい!!」という友人に誘われてくることになりました。
 彼と一緒ならできる気がしたんです。そこに数字の根拠はないけど、一人の人間がここまで熱くなれば必ずできるってことを一緒に証明したくなりました。奉還町商店街のことについて毎日Twitterで発信しています。

大学は東京、その後中国に4年間留学、日本に帰国後は中国系エアラインの関西空港事務所、商社、日本語学校ときて、今に至ります。関空時代の同僚の日本籍華人の女性と結婚しています。いったんは大阪の家と嫁を置いて、一人で岡山にくることになりそうです。
 ここまでがざっくりとした自己紹介です。ここから細かい自己紹介を書いていこうと思います。興味のある方は下までゆっくりと読んでいただけると嬉しいです。あと会ってはなしてみたい!と思っていただけた方は、こちらのbosyuで募集お待ちしております!

1.大学時代(2007年4月~2011年3月)

 大学のときは大学祭の実行委員会を3年間、4年時はクラブ団体を取りまとめる学友会に所属していました。クラブは中国研究会。中国に何か好きとか嫌いとかそういう感情があったわけではありません。たまたま友人に誘われて入ったのがきっかけです。それがまさか20代をほぼ中国に費やすことになるとは思いませんでした。奉還町商店街に誘ってくれた友人とは4年生の学友会で出会いました。
 わたしたちが学友会にいたとき、大学はちょうと開学40周年で、その記念イベントの学友会の担当が私で、彼が学友会の運営委員長という立場。そこがきっかけでよく話すようになったと思います。正直、そのとき以外に絡んだっけ?っていう感じなのですが、そのイベントに投下した時間と気持ちが大きかった分、いまにつながってるんだなぁと感じてます。大学で友人つくるのも悪くないですよ。
 中国留学に行くきっかけは、大学3年時の9月に大連からのお客様を大学で出迎えたことがありました。そのときそのお客様方はとても物腰柔らかく、素晴らしい振る舞いの方々でした。しかし、わたしはとても残念に思ったことがあります。それは通訳を介さないとこの方たちと直接交流ができないこと。「語学ができないだけで、私は交流を結ぶ機会を失っている」そのことを強く意識する出会いとなりました。それをきっかけに中国への留学を考えるようになりました。ちなみにそのことを書いた作文は中国留学時代に、全中国留学生作文コンクールで二等を受賞。中国語スピーチコンテストでも学内一位を獲得し、大連市の大会に学校代表で参加させていただきました。

2.中国留学時代(2011年3月~2015年7月)

 まさか四年も留学することになるとは。大連外国語大学(当時はまだ外国語学院)に10か月の語学留学、そこから3年間大連工業大学の修士課程に3年(中退)。中国語の勉強ひたすらした時期でした。
 一年目は朝6時くらいに起きて、勉強して、グラウンドで朝の朗読してる中国の学生と一緒に発音の練習して、授業出て、中国の友人と遊んで、ドラマ同じの10回見て、みたいな生活。昼も夜も中国の友人つかまえてご飯食べてました。とにかく中国語うまくなるためだけの生活。10か月でHSK6級まで取得。爱情公寓っていうドラマがあって、それを繰り返し繰り返し見てました。留学してすぐの時代はちんぷんかんぷんで、再生して停めて単語調べて、再生して停めて単語調べての繰り返し。最初のシーンがヒップホップとかトラクターとか、いやこれ学び初めに調べる単語じゃないやろと内心思いながら調べてました。それも血肉と化してます。あとこのドラマ悪口とか、冗談、流行語とかそういうセリフが多いので、しゃべれないくせに変なこと詳しい日本人留学生が完成。だから仲良くしてもらえたのかもしれません。

 大連という場所について長々とは書きませんが、日系企業が多くて、日本人が住むにはとてもいい環境だと思います。日本人学校もありますし、中国で唯一領事館の派出所がある場所です。普通は省会(県庁所在地)だけにあるんですが、遼寧省だけは瀋陽市(省会)と大連市にあります。余談ですが、アウディでナンバーが00で始まる車は行政の車です。00001は書記で、00002は市長の車。ABCはどの市かを表しています。なので「遼A 00001」だと瀋陽市の書記の車ってことですね。大連市はちなみにBです。O(オー)は省政府の車です。アウディだけです。
 大連は日露戦争時にもともと帝政ロシアの植民地だった部分を日本に権利が委譲されたところです(ポーツマス条約で遼東半島南部の租借権を移譲って習ったと思いますが、あれです)。そのため大連市全体の建築計画はもともとロシアがつくったものです。ただ計画はほとんど遂行されず、中山広場とか現在のロシア人街が残ってる範囲だけ建築されました。ちなみに中山広場につながる道路に街路灯があるんですが、ガタガタのやつはロシア人が、きれいにならんでいるのは日本人がやったそうです笑 大連について語りだすと長くなるので、ここらへんでいったんストップします。

3.大阪時代(2015年7月~現在)

 帰国してすぐに知り合いの紹介で中国系のエアラインに入社しました。関空事務所ではカウンターやゲートのハンドリング業務は他社様に委託しているので、その指示出しやクレーム対応、発券業務などしていました。電話応対とかクレーム対応を率先してやっているうちに、同僚や上司の方から信頼されていくようになった気がします。気が滅入ることもある仕事ですが、けっこう楽しかったです。中国嫁とは関空時代の同僚でした。転職をしたきっかけは、そのまま中国系のエアラインにいても上にいけないと思ったことですが、彼女と同じ職場にいるのは嫌だと思ったのもきっかけの一つです笑

 そのあと商社を経て、日本語学校へ。日本語学校では事務長をさせていただきました。完全に新規の学校でしたので、日本語を教えること以外全部担当しました。理事長とはもともと大阪府日中友好協会で知り合いで、一緒にご飯を食べた際に日本語学校を作るから来てくれないかとお話を頂きました。振り返ると、人に誘っていただいてばかりの社会人生活です。本当に感謝しています。新しい学校の制度づくり、学生募集・管理、在留許可申請・更新などをさせていただきました。

4.岡山で(現在~)

 2019年の宅地建物取引士の試験に嫁が合格しました(中国人なのにすごい!)。その話をうちの大将にラインで送りました。そうするとすぐに

「うちの会社くる?笑」

???????

よくわからない返事がきました笑
わたし大阪です。あなた岡山です。来いってどういうこと?笑
心の中ではそう思ったんですけどね、気づいたらすぐに嫁に相談していました。その次の週に彼は大阪にきて、家の近くのロイヤルホストで語り合いました。そこでシェアリングエコノミー事業のことを聞きました。

シェアエコ!?まじか!おもしろ!

そのときの感想はこんな感じです。いや一緒にやらんと一生後悔するなぁ、そう思いました。だから後先考えずに岡山行を決断しました。

シェアリングエコノミー事業は大阪にいるときからよくニュースを見ていたり、実際に使っているサービスもあったので注目していました。だから、彼がアイカサakippaといった有名なシェアリングサービスの中四国代理店になったと聞いた時には驚き、興奮してしまいました。

ちなみに大阪に家も購入した共働きの夫婦ですが、長い時間悩むことはありませんでした。二人とも新しい場所でまた飛躍していきたいという気持ちが強かったのだと思います。先にわたしだけ岡山に来て、しばらくしてから嫁も来るという形になりそうです。
 岡山との縁は少しありました。父親が岡山県高梁市出身で、僕の本籍も高梁市だったので戸籍謄本を取り寄せるたびにめんどくさいなと思いながらも、せっせと郵便を送っていたんですね。それがめでたく結婚して、大阪市にやっとこさ本籍をうつしたのにまた岡山に戻るという笑えない状況ではあります笑 実際、誘われるまで岡山にいくという選択肢は全然なくて、仙台のイチゴ農家見に行ったり、尾道に行ったりくらいの移住してみようかという思いはありましたけど、それもなんとなく。本当に引っ越すことになるとは思いもよらなかったんです。令和マジックでしょうか。
 ここまでがわたしが岡山に来るまでの物語。ここから岡山奉還町商店街がどうなっていくのか、それはnoteとツイッターを中心に発信していければと思っています。もし興味をもっていただけましたら、ツイッターとnoteのフォローをしていただけると嬉しいです。フクシマ宅建もよろしくお願いします。





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