僕らの生きた証

 

 
多重人格(解離性同一性障害/DID)を患う者の、主観、実話ベースのストーリー。そのままでは長いor記憶が曖昧な場所もあるため少し修正しつつ、起こった出来事は実話です。

前章

(視点1)


 長い、前書き

 耳にこびりつくような笑い声があっちからも、こっちからも聞こえる。とても楽しそうだけど、私はその輪に入る事は出来ない。なぜなら、笑われているのは“私”だから。

 一人の子が私の頭の上に手を振り上げた。私は自然と頭や顔を守るように二つの腕を交差して相手との間に割りこませた。恐くて目を逸らしたいのに、恐いから逸らしたくない。せめてと目を細めたとき、腕の隙間から見える銀色の物が窓からの光を受けてキラキラと光り私の注目を奪った。恐い恐い恐い恐い。そんなふ感情の中「キレイだなぁ」そう思っていた私がいた。

 その時は、周りがとってもゆっくりに見えた。キラキラした銀色の物がゆっくりと私の腕に向けて迫ってくる。とってもゆっくりなのに私の体は動かない。腕も、視線も体も全部が固まってしまったように感じられた。銀色の物が私の腕に埋もれていって……

 痛い、恐い、こわい、いたい、イたい?、居たくない?

 どくんと心臓がなったような気がした。体はその場所にあるのに私はぐーんと後ろに下がっていった。周りは真っ暗で、恐いような、恐くないような。その子が一変して泣きそうな目で私を見ている。それがどんどんと遠くなる。途中で暗闇の中に二つの背中が見えたような気がした。大きな背中と、私と同じくらいの大きさの背中。あれは……何だったのだろうか?

 その後の事はあまり覚えていない。

 先生にはケンカはどちらもが悪いと言われたらしい。私はあの子とケンカをしていたわけでは無かったのだけど……それを先生に言うことは出来なかった。何となく言ってはいけないような、そんな気がしていた。

 重たい足でお家に帰り着いたらお母さんが洗濯物を入れていた。カバンを置いて、ベランダの窓に向かう。お母さんを呼ぶ。

 今日ね、こんな事があったの。どうしていいか分からなかったの。恐かったの。辛かったの。痛かったの。変なこともあったの。苦しかったの。私はケンカをしたのじゃないの。あの子はどうして私を……。ねぇ……お母さんどうして私はこんな事をされたの?

「そういう時もあるよ」

お母さんはそういって少し笑った。また私はぐーんと後ろに引っ張られる。周りはまた真っ暗。お母さんが遠くなる。お母さんの口が動いているのに、何を言っているのか聞き取れない。

 ねぇ、お母さん……なぁに?なんて言っているの?お母さん……私は……。


ねぇ……抱き締めて……遠いのは恐い。真っ暗なの……。


ねぇ……お母さん……。



…………ここの方が恐くないのかな。


(視点2) 


 僕には兄が居た。しかし、僕らは一般的な兄妹とは少し異なった。兄には外界と触れるための体が無かった。兄の声は僕以外の誰も聞くことが出来なかった。

 幼少期、僕は兄を兄だと知らなかった。僕はそれを時おり聞こえる声として、敵ではない物として認識していた。僕の年齢が一桁の頃、僕はその声に疑問すら持っていなかった。聞こえる事が当然だと思っていた。

 ある時、声に言われた「俺らの事は一切他言するな」と。当時僕がどう思ったのかはもう覚えていないが、僕はそれを忠実に守った。幼稚園時代にいじめを受け、大人に助けて貰えなかった僕は当時から人間不信、大人不信であったからでもある。声が何故そんなことを言ったのか理由は成長するにつれて自然と理解した。他の人にはこの声が聞こえないのだと。自分の内側から響く声はたぶん無いのだと。

 時おり感じていた不思議があった。何故同級生達はあんなに無邪気に幼い事が出来るのだろうかと。何故あんなに人の傍に居ることが出来るのだろうかと。周りの子達がしている事がとても幼く感じた。時おり聞こえるため息に心から共感した。隣にいるその人に自分の事を開示できる事がすごいと感じた。いつその人が自分に牙を向くか分からないのに。そして、声が聞こえていないのなら仕方がないのかも知れないと思った。声は僕よりもすごく頭が良く、そして懐疑的で感情的だ。だから僕は慎重でいられた。

 同時に、自分が皆と違うかも知れないということに恐怖した。皆と同じでなければまた拒絶されるかもしれないと。そして僕はその声を聞こえないふりをした。元々口数の少ない声と僕の間に会話は一切無くなった。以前は聞こえていた泣き声もいつしか聞こえなくなっていた。そして僕が再びその声を意識をすることになったのは高校生になってからだった。


 高校生の時に僕は初体験をした。今考えればもっと危険を考慮しなければいけなかった。僕にも非があるかも知れないが、それでも許されない同意の無い初体験だった。弱みを握られ車から降ろされた時、体の奥底からの声が溢れた。汚れてしまった自分への嫌悪。僕に対する怒り。相手に対する嫌悪。後悔。これからの絶望。そんな様々な感情が一気に身体中を駆け巡り自分がコントロール出来なくなった。この時はまだ、涙は出なかった。そうして僕はまた分裂した。


(視点3)

最初に感じたのは苛立ちだった。ぎゃんぎゃんと耳をつんざくような泣き声がした。五月蝿い。頭痛がする。俺がその状況を理解したのはもっと後になってからだった。同じ幼稚園の同級生が振り回していたカッターが腕に刺さった。其れは虐められていた。教師も親も餓鬼同士の喧嘩ととらえ、其れに「喧嘩は良くないね」だぁ「良くあること」だと告げた。ただ、腹が立った。此方に傷があるにも関わらず、大人の都合だかで喧嘩とした教師も、自分の気持もはっきり同級生や大人に伝えられない其れにも、娘の様子の変化に気づけなかった母親にも。

 別の日、其れはまた虐められていた。泥団子を投げつけられて、其れは両手を握り締め、ただ耐えていた。そしてまた耳をつんざく様な泣き声。五月蝿い。苛立つ。反吐が出る。そして俺は急に動くようになった右手で足下の砂を握り締め、相手の顔目掛けて投げつけた。笑っていた顔が一変し、泣き出す其れと、教室に走り出す別の子供が目の端に見えた。教師がやってきて、水飲み場で対処する様子をぼーっと眺めていた。その後、教師には説教されたが、俺は悪い事をしたなんて思っていなかった。

 俺が俺に危害を加えた奴にやり返して何が悪い?

 そして理解した。大人とは、教師とは、社会とはそういうものなのだと。

 

 それから俺は其れ越しに日々を観察し続けた。そしてある日、其れに告げた「俺らの事は一切他言するな」と。何故そう思ったのかはもう覚えていないが、それが俺らを取り巻く腐った社会を乗り越える術の一つだと、本能の域で察したのかも知れない。そして俺は徐々に眠りに入っていった。

 俺は其れの記憶を持ちつつも、普段は暗闇の中で眠っていた。時折、其れの「僕が生きているから他の人から辛くあたられる」等という反吐の出る嘆きや、つんざく泣き声、突然沸騰するかの様な怒りに翻弄されながらも俺は其処に存在していた……筈だった。

 唐突の強い衝撃で俺は強制的に起こされた。視界に映るのは男の顔と振り上げられた拳。其れは男に殴られていた。其れの両手は車のハンドルに縛り付けられていて、其れは男に強姦された。

 腹の奥で黒く粘着質の何かが蠢く。腸が煮えくり返るとはこの事だろうか?「殺す」という衝動に脳が支配される。殴る、蹴る、刺す、切る、圧死、絞殺……何でも良い。此の感情をどうにかしないと俺が内側から引き裂かれそうだった。俺は其の男に掴み掛かろうとした。しかし、其の手は空を切り、視界の先では事が進んでいった。

 薄暗い最寄り駅に其れは降ろされた。住所や本名、学校を知られ、裸の写真を撮られた。解放ではない。性奴隷の始まりだった。

 俺は叫んだ。そうでもしないと壊れると思った。腹の奥底に渦巻く異物をどうにかして吐き出したくて、只々叫んだ。俺のプライドを踏みにじった彼奴にも、俺にこんな思いをさせる此奴も、弱い俺自身にも腹が立った。抵抗も出来なかった無力感に苛まれた。声が枯れるまで叫んだ後、其れは力なく家に帰った。そのまま風呂へと向かい、声も出さずに泣いた。この先、これ以上惨めに泣いてたまるものかと決意をしながら俺も泣いた。


第一章 出会いと再会

(視点1)


 彼女と出会ったのは二つ目の高校でだった。僕は一つ目の高校に通い始めてすぐに強姦事件にあった。それによって学校にいけなくなり、単位が足らなくて留年となった。進学校では周囲の視線が痛いだろうと、通信制の高校に編入した。
 そこで知り合ったのが友達の《ユウ》ちゃんだった。

 通信制の高校でも友達に馴染めずに一人で居た僕を気にしてくれたのがユウちゃんだ。本を読むことで現実逃避していた僕にたくさん話しかけてくれて、放課後一緒におしゃべりをしたり、カラオケに行ったり、一緒に勉強したりと、それまで同年代の子達と遊びというものを殆どして来なかった僕にとって、ユウちゃんとの時間はとても楽しいものだった。
 
 そして通信高校に編入してから数ヶ月がたった。その時期は夏休みで、毎日一緒に遊んでいた僕らにとっては、少し寂しい時でもあった。数日に一度は市内に行って遊んではいたけれど、学校以外で会うとなるとお金も必要だったりで、毎日とまではいかなかった。そんなある日、メールでユウちゃんから「家に泊まりに来ないか?」という誘いを受けた。僕は文面上、少し遠慮しながらも友達の家に泊まりに行くというのはほぼ初めてだったので、すごく楽しみにしていた。

 そしてお泊まり当日。
 僕はユウちゃんの家でたくさん遊んで、夕飯をご馳走になって、夜はユウちゃんの部屋にお布団を敷いてもらった。楽しさからお互い眠れず、僕らの会話の内容は何となく、何故通信制の高校に入ったかという話になっていった。
 以前にも少しだけ聞いていたのだけれど、ユウちゃんは家庭環境があまり良くなく、また小、中学校で学年問わずいじめをうけていた。お祖母さんが外国の人で、ユウちゃんはクォーターだった。その髪質や、色素の薄さを取り上げて悪口を言われたり、仲間はずれにされたりしていたのだと言った。僕は小学生時代のいじめから自分の黒髪が大嫌いだった。だから色素の薄くて長く綺麗なユウちゃんの髪は大好きだった。

「こんなにキレイなのになぁ」

 と僕は思いながらもユウちゃんの話をきいていた。

「《アイ》ちゃんは?」

 そう訪ねられて僕は少し迷ってしまった。この話をして良いのだろうか?という疑問と、思い出すことの抵抗、ユウちゃんから汚いと引かれてしまったらという恐怖を感じた。それでも、ユウちゃんがここまで僕を信用して言ってくれたのだから……と、ぽつり、ぽつりと昔あったこと、男性や人混み、閉所が苦手な経緯を少しずつ話していった。
 ユウちゃんの目には次第に涙が溜まっていった。そして、思い出す僕の目にも涙が浮かぶ。壁を背にして、膝を抱え、あまりユウちゃんの方を見ないようにしながら、ある程度を話し終えると、横からユウちゃんにぎゅっと抱き締められた。ユウちゃんの腕が僕の肩にまわり、頬にあたるさらさらの髪から僕と同じシャンプーの香りがした。

「ユウちゃん?」
「頑張ったね。辛かったね……」

そう言ってユウちゃんは泣いていた。僕のために……泣いてくれたのだろうか?そう思うとユウちゃんは思っていた通りとても優しい子だなと感じた。それから、止まらなくなってしまった涙で僕らは暫く泣いていた。


(視点2)

 普段と違う景色にまず俺は警戒した。学校やその周辺では無く、家でも無く、共に居るのは親でも無い。次第に頭がクリアになっていき、其れが最近つるんでいる奴の家に遊びに行くと言っていた記憶を思い出した。カーテンの外は暗く、暖色系の小さな明かりが辺りをぼんやりと照らす。

 其れと最近つるむ其の女は自分の身の上話を其れに語っていた。

 だからどうした。だからお前は私を大事にすべきとでも言いたいのか?

 語りを聞いていると段々と苛立ちが募っていく。
 更に其の女に触発されてか、其れまで自分の過去を語り始める。

 おい、辞めろ。馬鹿か?自分の汚点であり、傷を晒す馬鹿が何処にいる。辞めろ。利用されるだけだ。馬鹿が。何度傷付き、何度利用されたら学習するんだ?お前は単細胞か?

 俺が幾らそう言おうが、思おうが、其れの阿保には伝わらない。苛立ちだけがどんどんと降り積もる。腹の奥が次第に重くなり、呼吸が速くなり、体や脳の熱が上がっていく事が感じられた。

 馬鹿。阿保。単細胞。間抜け。お前の自己満に俺を付き合わせるな。

 幾ら其れを罵る言葉を探した所で其れの行動を止める術にはならず、其の口を止める事も出来ず、只、只、今すぐ全てを壊したい。その感情だけに支配されていく。
 其れの視界の端に女の姿が映り手を伸ばす。何をしているのか理解したのは、一瞬間が空いてからだった。

 頑張った?辛かっただと?何が分かる。お前に。所詮友達ごっこ

「だろうが……」

 女が自分のベッドに戻ったのと、俺の腕が急に動いたのはほぼ同時だった。握り締め、横に振った拳は窓の縁の木材部分に当たって鈍い音を立てた。女が此方を向いたのが体の向きで分かった。俺の視線は其れの位置のまま。床の敷き布団からゆっくりと視線を上げ女を見る。女と真っ直ぐに視線がぶつかった。

「ねぇ、貴方が何に怒っているか知らないけど、アイを傷付けないで」

 女の一言目がそれだった。真っ直ぐに俺を見てくる。其の目に揺らぎも無ければ、疑惑のようなものも伺えない。何だ。此の女は……其が俺としての第一印象だった。

「何が目的だ?」

 目からは読めない女の感情に抱いた疑問を薄ら笑いに隠して俺は視線を細める。女は体勢も視線も変えず真っ直ぐに俺を見たまま静かに言葉を発する。

「何も。あたしはアイと仲良くしたいだけ。だからアイを傷付ける貴方に怒っている」
「生憎俺は此奴の事が心底嫌いなんだよ」
「どうして?」
「何故お前に言う必要がある?」
「アイを傷付けて欲しくないから」

 腹の奥にある、今にも叫び暴れたい衝動を体裁で隠し、女と言葉を交わす。其れと同じ年の女の前で見苦しく暴れる事だけは俺のプライドが許さなかった。自分の都合しか考えられない彼等と同類になる事だけは……右の拳を固く握り締める。

 我慢しろ。耐えろ。絶対に……
 
 息が乱れる。俺が俺であるために、爪が食い込む僅かな痛みにすら縋った。頭が働かない。言葉を返せない。其の状況すら惨めにも感じた。
 次の瞬間、バチッと一瞬目の前に白い火花が飛んだ様に感じた。一瞬目の前が真っ白になり、意識がすっと体から抜け落ちる。そのまま後ろに向かって倒れる様に俺は意識を手放した。


(視点3)

 気付いた時には敷いてもらった布団の上に横になっていた。ユウちゃんがベッドの上から覗くように見ている。

「アイ?」
「……?」
「右手大丈夫?」

 何が起きたのか良くわからなくて、理解の追い付かないままユウちゃんを見上げた。ユウちゃんが言っている事も最初はどういう事かわからなかったが、右手に昔から何度か感じた事がある痛みを感じてゆっくりと起き上がった。右手に視線を向けるが怪我などはしていないようだ。
 そして同時に、どうしようどうしようとパニックが起きた。この状況を何となく理解したが、どう説明すれば良いのかわからない。どう誤魔化そう。どう言い訳しよう……そんな考えがぐるぐると頭の中を回るが、答えになりそうなものが何もない。そして恐怖が襲ってきた。

 嫌われた。恐がられる。変な人と思われた。また……昔みたいに……


「苦しそうだったよ」
「……?」
「とりあえずゆっくり呼吸して」

 ユウちゃんから言われた言葉は僕のどの想像でも無いものだった。そしてユウちゃんの言葉で僕が過呼吸を起こしかけていた事に気付いた。息が乱れている。ユウちゃんがベッドから降りてきて僕の背中をさすってくれた。「ゆっくりゆっくり」とユウちゃんの声に合わせて呼吸していると少しずつ落ち着いてくる。

「今の人はアイじゃないよね?」

 ユウちゃんの言葉に一度深く頷いた。

「アイはね、あんまりあたしの目を真っ直ぐ見ないから」
「……ごめ」
「ううん、そうじゃなくて、めっちゃ真っ直ぐに見てきたからさ」

 僕はゆっくりと彼について話した。ずっと彼との約束で話してはいけない事だった。でも、ユウちゃんなら、信じてくれるのではないかと思った。
 幼稚園の頃、いじめを受けていたらしい事。もう殆ど僕は覚えていない事。それから暫くの間、泣き声が頭の中で聞こえるようになった事。だけども彼に自分達のことは他言するなと言われ、いつの間にか泣き声も、彼の声も聞こえなくなってしまった事。彼が誰か分からないけれど、とても怒っている事を告げた。

 右手に今日は比較的弱い痛みが残っている。彼はいつも怒っているのだ。理由は良く分からない。だけど、何かに怒っていて良く近くの物を殴っているようなのだ。昔、一度酷いアザになってしまって、親に心配されたことがあった。たしか、自転車で転けたと誤魔化したようなきがする。

「うん、とっても怒ってた。それに苦しそうだった」
「苦しい?」
「うん、目がね、そんな目をしてた気がする。暗かっただけかも知れないけど」

 時にして十年ぶりくらいに聞いた彼の話。そんな彼の新しい一面だった。
 ずっと怒っているのだと思っていた。何にそんなに怒っているんだろう?自分の手がアザになるいくらい殴らないと、彼の怒りは解消されないだろうか?と思っていた。しかし、彼は怒っているのではなく、我慢出来ないくらいに苦しかったのだろうか?時々、親が喧嘩をすると、母親が苛立ってお皿を叩き割るが、そんな気持ちで彼は何かを殴っていたのだろうか?

 新しい一面を聞いた所で結局わからないのだけれど、何か一つでも彼を知れた事が嬉しかった。

「迷惑をかけてごめんなさい」

 そんな気持ちとは別に、今目の前にしているユウちゃんに謝った。ユウちゃんを傷つけてしまったかもしれない。ユウちゃんに嫌われてしまったかもしれない。ユウちゃんから変な子と気持ちわるがられてしまったかもしれない。肩をすくめて身を縮ませる。一度落ち着いた心拍数が少しずつ速くなっていくのがわかった。

「なんで?迷惑と思ってないし、あたしはそれでもアイが好きだから」
「……」

 そんな僕に返って来た言葉はとってもあっけらかんとしたものであった。ベッドに戻っていたユウちゃんは少し上から見下ろすように僕を見る。恥ずかしげもなく言われた「好き」の言葉に今度は違う意味でどうしていいのか分からなくなった。「ありがとう」のその一言が喉まで来ているのに出てこない。
 結局そのまま僕とユウちゃんはその日は眠りについて、次の日に僕は家に帰る事になっていた。


 次の日、お仕事だったユウちゃんの親の代わりに同じお仕事をしているスキンヘッドの男性と、パーマの男性が僕らを家の近くまで送ってくれる事になった。スキンヘッドの男性はとても優しかったが、実は僕はあまり得意ではなかった。僕を強姦し、今でも離してくれない男性を思い出すからだ。でもユウちゃんも一緒に来てくれる事で何とか安心しようとしていた。
 お店の駐車場で僕は迎えに来てくれた母と合流した。その時、

「お嬢!」

 どちらか分からない声がユウちゃんを呼んだ。それもいつもと違う呼び方で。普段は名前で呼ぶのにと、僕の頭には「?」が浮かび、母親とユウちゃんは「やばい」と焦ったのかも知れない。帰宅後、母親に「あの子とはもう一緒に居ない方が良い」と言われた。ガンッと強く殴られた様な気がした。
 
 何でそんな事を言うの……?
 何でお母さんはいつも否定するの?
 ユウちゃんは……あんなに……優しいのに……
 初めて……彼を……受け入れて……くれた人なのに……

 僕はスッと黙った。いつもの様にすればいい。何も見ない。何も感じない。何も喋らない。そして、心を遠くに飛ばせば、大丈夫。大丈夫。
 いつもそうやって、否定される自分を落ち着かせてきた。僕が何も言わなければ、「うん、うん」とただ話を聞いていれば、大丈夫だとそう思っていた。母親が彼女がヤクザと繋がりがあるのではないかと、心配していても、僕にとってはどうでも良かった。強姦をした男が既にヤクザが身内に居ると言っていたし、初めてかけられた温かな優しさに僕はもう依存しかけていた。

 更に次にユウちゃんと会った時、

「アイ、親からあたしと会うなとか言われなかった?」
「ううん、何も言われなかったよ」

 そう尋ねられたが、僕は自然と嘘をついた。本当の事を言えばユウちゃんが傷つくと思った。ユウちゃんは「あの二人がふざけるから」と少し怒ったように言っていた。やっぱり話さなければ良い、知らなくて良いことだとそう思った。母親がなんと言っていても僕はユウちゃんと友達で居たい。その為には僕が黙っていればいい。そう思った。


新たな名前 (視点1)

 エレベーターを使えば良かったと、ほぼ思ってもいない後悔をしながら、階段を一歩、一歩と降りて行く。窓からの太陽もうざい。階段より上の階にある教室から聞こえる女共の甲高い声もうざい。学校から駅に行きわざわざ電車で家に帰るのは怠い。総じて、全てがかったるかった。

 ガラとドアを乱暴に開ければ、其処にいた先客が顔を上げて此方を見た。ユウ、其奴が其処に居ることは既に分かっていた。短い金髪の髪が背後からの光を浴びてきらきらと輝いていた。眩しさに俺は右手で太陽の光を遮りながら眼を細める。

「遅いよー?」

不満そうに俺に言う其奴に軽いため息をつきながら、重い足取りで部屋に入る。入り口から離れた窓側の、更に窓に背を向けた列の何処かが此奴や其奴の決まったたまり場だった。其奴と同列の俺に一番近い席の机に鞄を投げて回転椅子に足を組んで座る。

「もー、アイのカバンなんだから大事にしてよ……」

そう言いながら寄ってくる其奴とは、あの泊まりの日を境に何度か顔を付き合わせる事になった。何かを話したくてというよりは、無理矢理引きずり出されたに近い。其奴の都度の説教はうざったかったが、何時本性を出すか……其れが楽しみでもあった。

 普段表で生活をしているアイ、此奴は頭だけは良かった。それ故に俺に時間だけはあった。俺がどれだけ授業をサボろうと此奴は自力でレポートをこなし、既に今年分のレポートを終わらせ、資格の為に勉強をしていた。 
 その為、俺は退屈しのぎに其奴が一方的に喋る会話を聞く事が多かった。其奴は飽きもせず相槌すらまともに打たない俺に自分の好きな漫画の話や、家族の話、散々たるレポートの結果を見せ付けてきたり、そして、壮大な夢の話を聞かせてきた。

「あたしさ、モデルになりたいんだ」

 以前其奴がそういった時の表情は俺が生涯で見た事の無いものだった。幼子が「私、アイドルになる」という具体性も何も無い様な夢を語る自由さを持ちながらも、その目の奥に俺に近しい何かを感じた。経験の浅い当時の俺には、其れが何とは分からなかったが、今思えば当時、其奴なりの信念であり、其奴を虐めた奴らへの復讐心だったのだと思う。
 その時、初めて俺と其奴が繋がった。圧倒的な力に対する復讐心。

 それまで、俺は一歩さえ踏み出せば俺に加害して来る奴等、どうとでもなると思っていた。やられ続けているのは此奴が抵抗も反抗もせず、只、その状況に甘んじているからであり、実際幼少期に俺が抵抗した直後は加害していた奴等は一時身を潜めた。しかし、此奴が何もしないと分かると、また無視が始まった。そういう事なのだと思っていた。つまり必要なのは此奴の一歩なのであると。
 しかし、彼奴との一件が俺を変えた。俺には何の力も無かった。もがく力も、叫びも体が使えないと何にもならないと見せ付けられた。弱い此奴の力では男の腕一つ振り払えないと、その圧倒的な暴力に、俺の自尊心は容易に踏みにじられ、俺等は奴に屈服するしか無かった。あの時も、今すらも。復讐心、其れが俺を立ち上がらせた。今は惨めな彼奴の思い通りの性奴隷でも、何時か、必ず……

「ねー!聞いてるの?」
「あ?」

 突然近づけられた顔に不満を全面に押し出す。

「いつも呼びにくいから名前くらいそろそろ教えてって言ってんの!」
「んなもんねぇ」

 咄嗟にそう口から出た。嘘では無い。だが真実でも無い。俺が此処に存在し始めてた時、名という物は無かった。だが、此奴は俺のことを何処かの本の登場人物の 名から《コウ》と呼んでいた。そして時折聞こえる彼の泣き声の奴を《ルイ》と。
 俺はそれからコウであった。此奴に呼ばれる名として嬉しくは無かったが、自己を認識するにはあっても良いか程度には。だが、あの日、俺の中でコウは消えた。意味の分からない事を言っている自覚はある。だが、今の俺はコウだった物であり、コウでは無い。そんな感じがだった。

「じゃあさ、今あたしの大好きな漫画に出てくる男の子で《ソウ》は?」
「……好きにしろ」
「決まり!後でアイにも聞いておくね。よろしくソウ君」

 こうして俺の新たな名はソウとなった。正直どうでも良かった。俺を識別出来る物であれば。そもそも俺がこうして会話をする奴がほぼ居ないのだから。


僕は……誰? (視点1)

 数日前から今日は予定が入っていた。今日は調子が悪くなり、病院へ行って、薬を飲んで眠り、明日には元気に登校する。そんな予定だ。
 朝起きて、まず「おはよー」とうユウちゃんにメールをする。最近は学校以外の時はとにかく頻繁にメールをしていた。時々だけど、元々一人っ子で友達も居なかった僕は長時間人と一緒に居るということに疲れてしまう時がある。基本的には一人で小説を書いていたり、読書をしている時間を多くとってきた。こんなに長く友達と一緒に居たり、会話をする事など無かったのだ。それが友達らしい事をしているという嬉しさと、今までと違う生活リズムに心身がついていけていないきつさが共にあった。それでも、今日はしなければならない予定があるのだ。

「何か今日、調子が悪い……」
「どうしたの!?大丈夫?」
「うん、熱が少しあって、喉が痛いんだ」
「風邪じゃないの??今日学校来れそう?」
「ちょっと親に相談してみる。もしかしたら病院行ってからになるかも」
「わかった!分かったら教えて!」
「うん!連絡する」

 そんなメールを終えた後、僕は自室から居間にいく。いつもと同じ様に制服を着て、身支度を整えて、母親の車でで地元の駅に送ってもらった。

「いってきまーす」

 母親にそう告げ、母親も仕事の為居なくなった後、鞄から携帯を取り出す。

「ごめーん。やっぱりまず病院に行くことになった。熱がちょっと上がってて」
「え?まじ?それは病院いきよ!あたしいつもの所居るから来れそうなら来て」
「うん!とりあえず病院で診て貰って悪化しないよう薬だけはだして貰ってくる」
 
 背後では学校方面に向かう電車が停まり、今にも乗車口が閉まりそうになっている。それでも僕はそちらに目を向けない。携帯の画面を違う人のメールボックスに変える。

「もう着いてます」
「近くに居るから行くね」

 そういって数分も待たないうちに一台の車がやってきた。僕はその助手席に乗り込む。いつもの煙草の臭いが鼻の奥にプンと香って吐き気を覚えた。

「お酒ありますか?」
「その袋の中だよ」

 コンビニの袋の中には缶酎ハイが数本とお菓子が幾つか。一番美味しそうな味の酎ハイを開けて躊躇なく飲む。炭酸の口の中がシュワシュワして舌先に刺さるような刺激が大嫌いだった。数口飲んで、缶をクルクルと円を描くように回す。少しでも炭酸が抜けないかと良くする事だった。そしてそのまま車は走り出す。この人に会うこと、これが今日の僕の予定であった。


 何時間の予定になるかは完全に相手次第で、直ぐに終わる時もあれば、一日中の時もある。親が帰る前に解散になった時は家まで数分の所まで送って貰う。相手が煙草を吸いに行っている隙をみてユウちゃんには今日は休むと連絡を入れた。
 彼の手が僕に触れる。何処に触れていようと、車が何処に向かっていようと、僕には意見をする権利は無いし、そもそも意見すら無い。酎ハイを持つ手を見ているとボヤッと一瞬二重に見えた気がした。相手の雑談に適当に相槌を打ちながら、お酒を飲む。
 
 もっとふわふわして欲しい。もっとぼんやりして欲しい。心が無くなって、身体だけここに置いて、何処かにいってしまいたい。

 そんな空想をしながら車に揺れていると、人影の無い場所に車が停まる。あぁ……と思いながらグイッと今までよりも大きな一口を飲み、そのまま相手に身体を委ねた。
 快楽は嫌いだった。痛いのも嫌いだけど、それ以上に快楽は嫌悪の対象だった。まるでそれを僕が望んでいるようで、待っていたようで、身体が僕の心を裏切っていくような気持ちがした。痛く、激しく、物のように扱って欲しいと願った。そう願えば願うだけ、彼は僕を女として扱った。

 裏切り者……数ヵ月前まで身体は僕と一体だった筈なのに。あの日を境にあなたは僕を裏切った。

 いいじゃん。受け入れてしまえば。苦しい事より辛くない。

 痛い方が良い。激しく痛い……その方が……

 みんなしてることでしょ?そうして貴女が産まれたのだから

 ……。

 快楽は嫌いだった。最後の最後、細く、小さく繋がっていた心と身体すら引きちぎっていくようで。強すぎる快楽は僕が何処かへ行ってしまいそうで。いつも、いつも「無理」と叫んだ。そうでもしないと僕が壊れてしまいそうで。そんな限界の僕を見て目の前の悪魔は不敵に笑う。僕の知らない僕が彼の首に手を回した。

 家の近くに降ろして貰って、直前のコンビニで買ってもらった甘いスイーツを頬張りながら家へと帰る。親が帰って来る前で良かった。親が居ると帰って直ぐにシャワーを浴びれないからだ。何だかんだ言って直ぐにお風呂には入るけど、やっぱり色々勘づかれるのではないかと怖い。
 家に向かって進める足がふわふわ、がくがくする。しっかりと地面を踏んでいる感覚は既にない。視点も右に左に定まらない。意識の一部が遠くにあるような感じがして、気持ち悪さや、悔しさ、自己嫌悪が遠く、奥の奥から僕を見ている。ふわふわする。イイコにしていればあの人は僕を傷付けない。甘い物もお酒も買ってくれる。たくさん可愛がってくれる。キレイだねっていってくれる。ぼくをみとめてくれる。

 家に帰りついて、シャワーを浴びた。煙草の臭いがついた洋服も洗って、ベッドに横になり怠い腰を沈めた。ユウちゃんから何十件もメールが入っている。

「大丈夫?」
「今何処?」
「熱が上がって寝てるのかな?」
「心配」

 うん……心配してくれてありがとう。でも……それならもう寝かせて……メール返す体力も、もう残ってない……


(視点2)

 怠い足取りで、ドアを通り抜け外に出る。この時の太陽が一番嫌いだった。手には母親からくすねた煙草が一本とライター。焼却炉の近くまで重怠い下半身を引きずるように歩く。ライターを使って煙草に火をつける。副流煙が風に流れるようにたちのぼった。くさい臭いが鼻を刺激し、胃から酸っぱいものが上がってくる。
 煙草のフィルターを唇にあてゆっくり吸い込む。最初の時、苛立ちに任せて吸い込んだ時は激しくむせた。ある意味かなりの奴が通る道かも知れんが、もう二度としたくはねぇ。彼奴と知り合ってから、幻覚の一つなのか知らないが、時折何処に居ても、此奴が表で生活していても煙草の臭いがするような気がする。その嫌悪感をかき消すように俺は煙草を吸い始めた。この煙草の臭いは彼奴ではなく俺のだと思い込もうとしているのだろう。

 彼奴と初めて会った日から抱えている、彼奴をぶっ殺す……その感情に変わりはない。だが彼奴と会う回数を重ねる毎に、俺と此奴の関係性を経験で理解し始めた。

 最初彼奴が此奴から奪ったのは「抵抗」だった。此奴が抵抗を示すと腕を捻り、肩を掴み、そして拘束した。何度も何度も此奴に謝らせ、そして悟らせた。抵抗をしなければ暴力を振るわれないと。幼少期から両親が不仲であり、顔色を伺い続けてきた此奴がそれを悟るのは、そう難しい事では無かった。その間の俺達はかなりの荒れようだったが。
 ルイは恐怖からかぎゃんぎゃんと泣き、俺は今にも全てをぶち壊したくなる激昂と何も出来ず事の成り行きを見る事しか出来ないやるせなさに何度も心をなぶり殺されていくようだった。
 新たな女二人も遠くに居た。彼奴に会うと「御免なさい、御免なさい」と頭を抱えひたすら謝る女。そして其の女を抱き締める一回り小さな女。

 此奴が抵抗を辞めると、今までの仕打ちは何だったのかと思う程、優しく接してきた。する事は変わりはしないが、それ以外の時間には、此奴に酒という逃げ道を与え、甘い菓子を買ってきたり、香水やアクセサリーなどをプレゼントした。抵抗すれば豹変し、抵抗しなければ優しくされる。此奴はすっかり抵抗を辞めてしまった。時折「いっそ、ぼろぼろにされたい」と抵抗の素振りを見せる事もあったが、本物の暴力を自ら受ける選択を出来る奴などそうそう居ないだろう。

 そんな時でも俺は此奴から主導権を奪う事が出来なかった。携帯さえ壊せれば、彼奴さえ殺してしまえば、俺が苦しむ事も無い。とにかくその一心だったが、結果それは一度たりとも叶わなかった。

 今現在の俺だから言える事だが、この状況下で俺が此奴を「乗っ取る」という事はあまりにも相性が悪すぎる。「怒りをぶつけたい」俺に対し、幼少期の虐めから「他の人格を守る」為に生まれた此奴。状況的にいくら俺が男の人格と言えど、彼奴に暴力で勝てるなど、かなり不可能に近い。
 そして、俺はこの先も何度もこれを繰り返しながら激しい怒りと何も出来ないやるせなさにうちひしがれる事になる。


第二章 恋愛と歪み


(視点1)

 ユウちゃんと知り合って半年くらいたった秋頃、僕の身の回りではたくさんのことが変わっていた。

 まず一つ目は怒りの彼に名前がついた。ソウというらしい。ユウちゃんから「良いかなぁ?」と言われたけど、ユウちゃんと彼自身が良いと言っているのだから、僕に反対意見などは無かった。
 そして時々だけど、彼の声が昔のように聞こえるようになってきた。そういえば遠い記憶で僕は彼と会話をしていたような気がする。泣き声の子の声は全くだったけれど、時おり自分とは全く違うソウの声が会話に入ってくるようになったのだ。

 そしてそのソウを感じる、体でいう胸の辺り、真っ黒な空間に、一人の少年と一組の姉妹の姿も発見した。少年は無表情でこちらに話しかけてくることもなく、ただじっとこちらを見つめてくる。何度か話しかけてみたけれど、特に怒っているわけでも、何かを伝えたいようなわけでもなさそうで、ユウちゃんはその子を《ユエ》と名付けた。これもある漫画の登場キャラで似た子が居たからなのだが、本人が頷いたので良いと思われる。
 後の二人は、胸辺りの遠くに居るみたいで、姿も、声もよく分からないので、とりあえずもう少し様子を見ることにした。

 そして、一番大きな事は……ユウちゃんとソウが付き合うことになったという報告だった。
 報告はユウちゃんから聞いたのだが、ソウがユウちゃんに告白をして、そしてユウちゃんがOKしたのだという。聞いた瞬間は頭が真っ白になってユウちゃんが言っている言葉が理解出来なかった。告白を受けた時、ユウちゃんもそうだったと後から聞いた。「なんであたし?」と聞いたけど、結局よく分からないままだったらしい。僕もこの時ユウちゃんに「なんでOKしたの?」と聞く余裕もなかったから同じような感じだったのだろうか?本来であればソウ自身に聞きたかったけれど、この当時、僕とソウはいつも会話できるわけではなく、ソウがユウちゃんを好きになった理由とかはよく分からないままだった。

 そして問題はもう一つ。これはユウちゃんにも話している事だが、僕には中学生の頃から付き合っていた彼氏がいた。
 付き合うことになった切っ掛けは、相手から、しかも顔も写真しか知らないような状態で告白されたから……というなんとも可愛げも、ドキドキもないような理由で、どんな所が好き?と聞かれても、「何となく優しいところ」という曖昧で無難な答えしか返せない関係だったのだけど、一番辛かった高校時代の荒れた、不安定な状態の時も電話で話を聞いてくれたりしていたから、別れ話もどっちからも出ずに付き合っていたという感じであった。

 ただ、これは完全に二股?になってしまうのではないかと僕は考えるようになった。
 僕とソウは精神の面では完全に別人だ。僕は確かに可愛らしいお洋服が好きなユウちゃんに憧れのような感情を抱いてはいたけれど、それはソウのような恋愛ではないと思う。あまり友達関係を築いてきていない僕ではあるが、大事にしたい遠距離の友達が二人いた。その友達に抱く感情とは、少し違うけれど、でも似ている。だから、友達なのだと思う。
 けれど、ソウがユウちゃんと付き合うということは、この一つの体で恋人が二人いるということで……でも僕にとってユウちゃんは友達で……。と、結局困った僕はそれを彼氏に素直に話すことにした。彼氏の意見が聞ければ、このよく分からない気持ちに無理矢理でも整理をつけなければならないと思えるかもしれないと思ったからだった。
 しかし、それには彼氏にまずソウの話をしなければならない。もしかしたら気持ち悪がられるかも……という不安がまた胸の奥底から首をもたげえる。別れ話になってしまうかもな……そう思いながらも不安いっぱいで彼にその話をすると、彼はソウのことを知っていた。昔一度電話越しで代わってしまったことがあるのだという。僕にとって初耳のことを聞きながら、結局彼はソウがユウちゃんと付き合うことに、「いい」とも、「悪い」とも言わずに「そっか」と言っただけだった。


(視点2)

 お友だちは怖い。お姉さんも怖い。大人の人も怖い。銀色のキラキラは痛い。でもここもまっくらで怖いときもある。他の怖いよりもいいけれど……

 目を開けるといつものまっくらと違っていた。手の下はざらざらしていて、これがタタミというものだとは、私も知っている。体が横になっていて、起き上がろうとしたけれどうまく動けない。手でタタミを押して体を起こそうとした時に、私をみる目と目があって息を飲んだ。
 ヒッと声がもれて、反射的に目からぼとぼとと涙があふれる。

 こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。

 タタミのすれる音がして、私の怖いは限界を超えた。机の上、私のすぐ近くにあったプラスチックのコップをにぎって投げる。

「来ないでぇ……」

 精一杯の抵抗だったが、コップは相手に当たって、床に落ちた。音が少しずつ近づいて、私の頭に何かがふれた。体をぎゅうっと固くする。
 叩かれる。でもない。髪を掴まれる。でもない。何だろう。怖い。怖い。怖い。でも、痛くない?

「大丈夫。これからはね、あたしがルイちゃんを守ってあげる」

 じっとした。なにを言っているのかわからないから、何をされてもいいように、膝をぎゅっと抱えた。だけど、ずっと待っても何もされなかった。相手も動かなくて、ただ、柔らかくて、温かい。

「……ママァ」

怖いと、分からないがいっぱいになって、ママを呼んだ。私は、どうしたらいいの?

「あたしがママになるよ」
「……ママ?」
「そうだよ。もうね、ルイちゃんは痛い思いしなくていいからね?ママがルイちゃんの傍にいるから」

よくわからないけれど、私にママが出来た。新しいママは暖かくって、少し、まっくらも怖くないかもって思った。痛いことも、怖いことも、苦しいことも、今日はされなかった。そうしたら、とっても眠たくなって、私はまたまっくらな中で眠ることにした。


(視点3)

 ユウと話すようになって暫くしたある日、俺はユウに告白した。突然の事ではあったが、俺からすれば、至極当然で、只俺の感情に正直なだけだった。

 最近分かってきた事がある。俺が此奴と会話が出来る時は、ユウと居る時、此奴の行動が俺の目に余る時、俺が苛立ってる時。総じて俺が本気で会話をしようと望む時だと思う。そのうちのユウと居る時は俺の意思がはっきりし始めて、俺らの位置の交代が起こりやすい。
 位置の交代とは、普段暗い場所から此奴を眺めている俺の場所に此奴が居て、生活している場所に俺が居る。こうすると俺の自由に発言、行動が出来ると理解した。昔も何度かこういう事はあり、俺が苛立って辺りを殴っていた事があったが、こういうことが起きていたのだろう。

 その日も此奴は学校の休日にユウの家に泊まりに来ていて、ユウの部屋で寝る前の会話をしていた所だった。俺の意識が段々とはっきりし、ユウと此奴の会話内容に俺の意見が生じる。此奴の言葉ではなく俺の言葉で……そう思うと俺らは交代する。

「ソウ君おはよう。もう夜だけど」

 と、ユウはもう慣れた様子で俺に語りかける。もう何度もこの様なことが起き、俺はユウと時間を過ごした。一般(人格が一人)の奴にとってはたかだか数十時間かも知れないが、俺にとっては貴重な時間だ。
 そもそも、俺の意識が生まれたのは体が五歳の頃で、当時俺らは虐めを受けていた。小学校に上がる頃、父親の都合で引っ越したが、幼稚園のトラウマからか、友達付き合いの上手く出来ない此奴は、また虐めの標的となった。平行して、性被害も受け、中学に上がった頃は此奴は立派な本の虫となっていた。そして、高校に上がると同時に性暴力を受け、休学、今に至る。
 
 良く考えずとも分かるだろうが、此奴は身近に友達や頼れる人間関係を作れず、友人と呼べるのはメールで繋がる遠距離の奴らしか居ない。俺にとっても此奴の身近な同級生共は恨み辛みの対象ではあれど、友達等と呼べる存在ではない。同時に俺は親に虐めを否定され生まれた存在なので、間違っても俺が此奴の親の前で交代なんざしたかねぇ。
 そんな俺にとって、俺を俺と認識し、俺の目を見て、ユウがつけたとはいえ俺の名を呼び、俺に喜怒哀楽を向け、俺の価値観でお互い言葉を交わす。この事がどれだけ充実したものか分かるか?分からない奴は一度数年間、誰とも合わず、言葉も交わさず、恨み辛みの中一人苦しんだ後にただ一人、誰かと会話をしてみると良い。

 此奴の経験から俺自身が拒んだ人間関係だが、それは同時に傷付きまくったプライドの疼きをただ耐える事でもあった。決してユウの事も最初から信じていたわけじゃない。何なら今も心底から信頼しているとも言いきれないかもしれない。それでも今まで俺らの前に居た「友人」などとほざく連中とユウは全く違った。
 ユウは日頃から此奴と楽しめる事を探し、とにかく良く笑い、色々な所に此奴を連れていった。此奴にとって初めての場所という所は必然的に俺にとっても初めての場所になる。何を馬鹿な事をしているのだと呆れた事も少なくない。否、多すぎる。それでも楽しそうに笑うユウに俺は惹かれていった。
 それだけではない。決定打になったのは、ユウが昔の虐めの話をした時だろう。ユウは「可愛い子が得をする世界」だと言った。その意見に俺も根っからの反対は無い。そして「だからあたしは可愛くなってモデルになりたい」とそう言い泣いた。以前もこの決意は聞いた筈だったが、今回は俺の受け取り方が違った。ユウの決意を素直に凄いと思い、同時に無謀でもあり猪突猛進過ぎるとも思った。ただ、そう言うユウを誰よりも綺麗だと思った。

 告白は俺からした。ユウはそんな事思ってもいなかったのか驚いて「何で」と聞いていたので、正直に答えた。最初は疑っていた事。次第に笑顔に惹かれた事。この間のユウを綺麗だと思った事。そして、何より……

「俺はお前を守りたいと思った」

 そう告げた。ユウは暫く黙ったが、その後小さな声で「お願いします」と答えてくれた。


(視点1ー2)

 この話を始める前に、ユウちゃんの霊感体質を話しておかなければいけないと思う。

 ユウちゃんはいわゆる霊感のある人、霊に乗っ取られる人であった。最初にユウちゃんを乗っ取った人はソウ君の出現前、外国の女の子だった。名前はミッシェルという女の子で、学校の自習室で僕の顔を見ると逃げ出した。僕は彼女を追っかけて教師用のトイレの前で、下校時間ぎりぎりまで待った。先生に慣れない言い訳をして、とにかく待ち続けた。下校時間を少し過ぎてトイレから出てきたのはユウちゃんだった。

 ユウちゃんはミッシェルちゃんの生い立ちと、ある人形を拾ったらその中に居た子であること等を話してくれた。僕はその話を信じた。僕は幽霊は見えないけれど、ソウ君達が僕の中に居るのだから、幽霊がユウちゃんの中に居る事を疑う理由は無かった。今思えば、ユウちゃんがこういう体質だったからソウ君の事をすぐに受け入れてくれたのかも知れないし、僕の抵抗も少なかったのかも知れない。

 僕は何度もミッシェルちゃんと話し、ようやく少し安心して話してくれる所まで信頼を得れた。そんな事が何度もあった。僕は乗っ取る人、乗っ取る人全員と出来るだけ話をして、悪い事をしないで欲しいと伝えた。もちろんその分彼らの話も何時間も聞いた。

時おりユウちゃんは「霊感とか全部嘘!」とそう言う時があった。それでも僕は「そうなんだ。ユウちゃんが無事なら良かった」と告げた。お世辞ではなく本心だった。ソウ君の様に苦しんでいた霊達が嘘なら、それは良いことだと思った。でも大体最後には「全部嘘が嘘……皆居るの」と話していた。僕はそれも受け入れた。

 ある日、僕はユウちゃんの家に泊まりに来ており、近くの銭湯に二人で入りに行っていた。お風呂から上がって髪を乾かすユウちゃんが突然代わった。鏡越しに此方を見ると、

「こいつに協力するのを辞めてください。さもなくば貴女を殺します」

 と言った。目付きは鋭くて、殺すという言葉がどれだけ本気かどうかは分からなかった。でも僕はその気持ちにはその時なりにもう慣れていた。きっと今の僕から見ればうっすい本気だったのだと思う。それでもその時なりに生きること、性奴隷で居続ける事に辛く絶望しており、殺されるなら、それでも良いと思っていた。

「どうぞ。いいよ。でも、ユウちゃんに酷いことするのは辞めて欲しい。僕の大事な人だから」

「嘘だと思っていますか?本気ですよ」

 そうその子は言って僕に近づいてくる。それでも逃げる選択肢は僕には無く、その子をジッと見つめていた。

「逃げないのですか?」

「逃げないよ」

「首を絞める事も、家で刺す事も出来ますよ」

「そうだね」

「何故逃げないのですか?」

「自分の命よりもユウちゃんが大事だから」

 この辺りで試されていると感じた。殺す事が本気かは別として、僕の反応を試していると。だとしたら余計に逃げる事は出来なかった。少しの無言の後にその子はどこかに行ってしまった。僕はユウちゃんの家に帰りながら、さっき会った子の話をした。「怖かったでしょ」と謝るユウちゃんに、「大丈夫、怖くはなかったよ」と答えた。これが《シエル》との初めての会話だった。シエルと二度目に会うのはもう少し先の話になる。


絶望と後悔と嫉妬

(視点1)

 ユウちゃんと知り合ってかなりの月日が経った頃、僕の精神疲労は限界を超えていた。新しい幽霊さん達との会話に、ユウちゃん自身の不安定の心配と、僕自身の不安定さに日々翻弄され、気持ちに余裕が無くなっていた。
 この頃はユウちゃんの乗っ取りもとても激しくて、数日に一人は新たな幽霊さんがやって来る程だった。夜中に乗っ取りが起こる事もしょっちゅうで、その度に電話をしたり、長いメールで暴れないようにお願いをしていた。睡眠時間が削れたり、夜中の電話で起きる事も多く、次第にユウちゃんの家に長期間泊まるようになっていった。

 そんなある日、親からのメールが入り、どうしても家に帰らなければならなくなった。電車で帰宅途中、僕は凄く嫌な予感がしていた。何か起こる……そう思えてならなかった。
 帰宅し、予定を済ませた後、携帯を確認すると案の定ユウちゃんからのメールが入っていた。嫌な予感がびんびんするなか、メールを開いてみる。すると「アイ……レイプされた」とだけ書かれたメールが一通入っていた。その瞬間、頭の中で何かが割れる様な、そんな衝撃が走った。

 なんで、なんでもっと気にしなかったのか?嫌な予感はしていたのに……なんで……

 とにかくとにかく自分を責めながらメールを打った。今どうなっているのか、何処にいるのか、何でそうなったのか、勿論沢山の心配の言葉と共に何通もメールを送った。
 それと同時に、強姦の辛さを嫌という程知っていながら、その兆候に気付けなかった自分を憎んだ。リストカットでは済まない。消えない傷を付けようと思った。この事を忘れないように。他の性に疎い人が僕のような苦しみを味わう事が二度と無いように。僕はヘアアイロンを手に取り、熱して左手首を焼いた。
 チリッとした痛みに何度も反射的に離してしまう。それでも何度も焼いた。ユウちゃんの今の苦しみはこんなものじゃない!と、十数ヵ所の火傷を作った。傷跡は白く焼けていた。

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