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読書 Ⅰ 図書館で借りたもの

以下の文章は半年以上前に書いたもので、だらだらと下書きに置きっぱなしにしていたので取り敢えず見える所に置いておこうと思い。

①『碧梧桐俳句集』(岩波文庫、2011)
②小澤實『万太郎の一句』(ふらんす堂、2005)
③『明石海人歌集』(岩波文庫、2012)

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①『碧梧桐俳句集』

約2000句、すごいボリュームだったが、碧梧桐が新傾向俳句に向かって、自由律に漸近し始めたのが分かり、流れに沿ってすいすいと読めた。前半と後半があまりにも(文体や表記の)雰囲気が違っていて、見渡すと非常に面白い。それでも、やろうとしていることはずっと同じことに思えた。

一番の収穫だったのは、俳論「二十年間の迷妄」への共感だった。その一部を引用する。

 詩の内蔵性は、言葉やリズムの目新しさにあるのではない。言葉を求め、リズムを懸念する技巧に囚われるとき、それだけ内蔵性は薄められる。
 詩の弾力性は内蔵性の張りにある。言葉のみの弾力性は、言葉の遊戯である。
 詩情は強烈な刺戟で人を突き刺すよりも、穏やかな流れで人を包むべきである。
 日常の些事をあたりまえの言葉で叙して、そうして大きな内蔵性を持つようにありたい。

最後の一文が、碧梧桐を表しているなと思った。たしかに、些事をあたりまえの言葉で叙している。リズムや新しさ先行ではない。「大きな内蔵性を持つようにありたい」の言葉がなんだか透き通るように聞こえて、良かった。
僕としては、その「遊戯」がときに人を優しく包み、捕らえることもあるのではないか、と思うが、概ね共感した。

以下、好きな句をどんどんあげて適宜感想を付したい。……と思って、なんとなしに著作権が死後五十年で切れるのを思い出して調べていたら、碧梧桐が亡くなったのは1937年。意外と、そんなに昔ではないのだな、と驚く。まだまだこれからだ、という気持ちが湧く。
(かなり好きな句には○をつけた)

「新俳句」

ちよろヽヽと榾火の夢の何もなし
赤い椿白い椿と落ちにけり
すべり落つる薄の中の螢かな

「榾火」という言葉、本当に格好いいなとしみじみ思った。何度も登場する。「ちよろヽヽ」という修飾が火にかかっているのが、火の動きを鮮明にしている。
〈すべり落つる〉、螢がぴったり。よく見ている。

「春夏秋冬」

虻と蜂の花に日暮るゝ別れかな
流れたる花屋の水の氷りけり
口あいて居れば釣らるゝ蜆かな

〈口あいて〉、上から読むと、蜆で驚く。「あいて居れば」が第三者からの描写なのに、「釣らるゝ」で蜆の気持ちに立つのが可笑しい。間抜けである。

「続春夏秋冬」

下り二艘上り来ぬ夜の長さかな
桔梗は画巻の縦に画きけり
○ひやひやとゐて楽めど妻子かな
短日に馬休ませて田家かな
白馬に使者にほやかや春の宵

なかなかハッとする発見で溢れている。特に〈ひやひやと〉は、「妻子」の二字にたくさんの景色や内容が詰まっている。

「新傾向句集」

蜩や浦人知らぬ崖崩れ
雨に泊れば雨は晴れたる蜻蛉かな
我を恋人といふ人淋し秋の風
飲み水を運ぶ月夜の漁村かな
盗まれし牛の訴訟や冬籠

「浦人知らぬ」、「淋し」、「運ぶ」が良い。〈雨に泊まれば〉は、「雨に」が巧い。この連体形はどこまで繋がっているんだろう。虚子の〈遠山に日のあたりたる枯野かな〉と同じ連体形か。

沼移りしてつどひをる鴨小鴨
鮫汁に昆布なめらかな凝りやう
雪解水書架の上より流れけり
あるべしと期せし牡丹の寐覚かな
山百合を束ね挿す蚊の夕かな

〈鮫汁に〉、納豆汁など、微妙に使いづらい食べ物の季語をかなり詠んでいる。「なめらかな凝りよう」のスムーズな流れが汁感を増す。
〈雪解水〉、書架の裏やら上やらがどうこうという句はかなり見たことがあるが、この使い方は変。まるで書架が外にあるような、もしくは、雪解水が内にあるような気がしてくる。この把握がよく「けり」に現れている。
〈山百合を〉、「蚊の夕」がいくつか出てくる。蚊、嫌なイメージしかないが意外と詩的かもしれない。

百合涼し右にゆれても左にも
木調べの匠が手記や蚊の夕
果樹の主に鉱山よりの霧臭ふ朝
○岬めぐりして知るや鳥の渡り筋
海までの水路に偽砲浮寝鳥

この辺りから音が増え始める。「主に鉱山」「岬めぐり」という響きが好きだ。

蝶そゝくさと飛ぶ田あり森は祭りにや
この流れ町に入る櫨に立つ柳
遠く高き木夏近き立てり畳む屋根に
町なす程に汽車道も潜る蟬の木々

〈この流れ〉、どの立ち位置から見て言っているのだろう。どの流れなのかも。なんとなく、''通学路のことはなんでも知っている''的な感覚を得た。違うかもしれない。
〈遠く高き〉、k音、a段、i段の韻がどどどと踏まれている。これは自身の言う「遊戯」では?と思うが、夏だからこその雰囲気だと思う。この駆け出すような勢い。

「八年間」

○水すれヽヽの糸や凧なき夕曇り
学校休む子山吹に坐り尽しぬ
藤棚大きさ父子の暮しになりぬ
二人が引越す家の図かき上野の桜
○つゝじの白ありたけの金をはらひぬ

てもなく写生してしまひし石竹(せきちく)がそこにあり
○昼寝してゐたときに来た母の知らぬ君

(せきちく、はルビ)
「水すれヽヽ」、「ありたけの金をはらひぬ」が良い。「藤棚大きさ」の、助詞で繋げず名詞を並べてぽんぽんと行くのが、「暮し」をよく示している。
〈てもなく〉は、思わず笑ってしまったが、単に写生しちゃったよという句に終わっていない。分かりやすいほどにs音で踏まれている。楽しそうで何より。
〈昼寝して〉、彼女だろうか。「母の知らぬ」にこれ以上ないほどの実感がある。

話のいとぐちがほぐれ若鮎の香が漲つた
牛飼牛追ふ棒立てゝ草原の日没
牛飼の声がずつとの落窪で旱空なのだ
子猫が十二のお前を慕つて涙ぐましい話
正月の日記どうしても五行で足るのであつて
梨売が卒倒したのを知るに間があつた
○隣りの梅を見下ろして妻の云ふこと
◎日の出間がある海際をあるく気になつた

兜太の突き出した音律の句を見るときとは違う気持ち。碧梧桐の破調は、はっきり言って余計であると思う。ただ、それを余計に終わらせない力がある。言いまくるのだ。

〈話のいとぐち〉、「香が漲つた」まで言うことで全てが若鮎に収斂する。
〈牛飼の〉、「旱空なのだ」で旱空なのだ!と明るくなる。
〈子猫が十二の〉、「涙ぐましい話」まで言うからこそ、子猫や十二という要素も魅力的に光る。
〈梨売が〉、「間があつた」が、読者の想起を一気にスローに、停止させる。
〈隣りの梅を〉、何を言ったのかを言わないということ。まさに「大きな内蔵性」があるように思う。
〈日の出間がある〉、「海際をあるく気になつた」、僕の碧梧桐の印象はばっちりこれになった。そういう気持。素朴。なんだか泣けてしまう。

「碧」

妻と雪籠りして絵の具とく指
○窓の高さのすくヽヽとしてゐる冬木

「指」、「冬木」の体現止めが潔い。「窓の高さ」の着眼、「すくヽヽ」の伸びやかな比喩。心地いい句だ。

「三昧」

春かけて旅すれば白う紙の残りなくもう

「もう」の先を言わないのが、旅というものだ。

今回はいい勉強になった。やはり自分が知らない、知ろうとしていなかっただけで、好きな句はたくさん詠まれている。探さねば。

②小澤實『万太郎の一句』

久保田万太郎を読まねば読まねばと思いつつ保留し続けていたためいい機会に。小澤さんの一句一句の分かりやすい説明と、先行の解釈を含めての意見が凄く読みやすかった。僕が好きなものに○を付けている。

はつ夢やおぼえてゐたきこと一つ

「一つ」なのが良い。控えめな嬉しさ。心強い。

ともづなのつかりし水や松の内

「松の内」の収め方が非常に落ち着く。何気なく上五中七が発音しやすい。

室咲のうつくしければうつくしき

後半が言っていることなど、ほかの場所で読めば当たり前のものだが、「室咲」だからこその見え方がある。

鰺焼けてくるのを待つや冷奴

や切れで映像がどこに向かうかと思えばすぐ近くの冷奴に移るのが、狭すぎて面白い。あくまで鯵が主役で、早く焼けまいかと待っているときに在る冷奴。待ちながら冷奴を食べている/見ているのだろうと初読では思ったが、もしかしたら冷奴が鯵を待っているとも……。それはそれで食卓のほのぼのさが見えて良い。

秋晴や人がいゝとは馬鹿のこと

そんなことは無い、と思うが、多分そこがポイントなのだろう。真面目にやるほど馬鹿を見る、等の嫌味な言い回しが存在するが、ここではこの「馬鹿」であることに対して、そこまで悲観的に捉えてないような感覚を得る。上五の突き抜ける涼しさが、僕には元気に見えた。

蓮枯れたりかくててんぷら蕎麦の味

この「かくて」はなかなか意味がわからないが、蓮・枯れ・たり・かくて、のa段でするするつなげててんぷらに移行しさらに「蕎麦の味」だという、この奔放ながら句はなだらかに入ってくるのが心地いい。蕎麦屋の天丼とかそういうものを想起すればいいのだろうか。蕎麦の味を現実にしろ想像にしろ感じた、その前景に蓮が枯れたことがあるというのは、なんとも不思議な食べ物だ。果たして美味しいのか。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

語が及ばないところにあるようなぼんやりと、でもたしかにそこで光っている句。この句を読むたびにすうっと体から何かが引いていくような感覚を得る。この句の背景等を読むとさらに。「湯豆腐」という季語が絶妙に効いている。これ以上にない季語と内容の応答。

(その他良かった句)

いてどけのなほとけかねてゐるところ
東京の雁ゆく空となりにけり
したゝかに水をうちたる夕ざくら
花曇かるく一ぜん食べにけり
時計屋の時計春の夜どれがほんと
校長のかはるうはさや桐の花
親一人子一人蛍光りけり
あさがほやはやくもひゞく哨戒機
さびしさは木をつむあそびつもる雪

③『明石海人歌集』

明石海人について初めは何も知らず、ただ唯一知っていた、〈空はもうかすんでゐるのにこの朝の海へ落ち込む沢山な蝶〉が好きで手に取った。
読めば、彼はハンセン病の罹患による苦難の日々の中で短歌を作っていた。特に途中、誰に菌をうつされたのかということを想像する一連の歌を読んだときはおそろしく悲しく、これが現実なのだろうと思った。
僕は中学三年のとき学校の人権劇でハンセン病患者を視る医者の役をやったことがある。それに関連して色々な資料を見たが、これは大変だなあと幼心に思った。症状もさることながら、それに対する人の当たり方が酷すぎる。全てが全てそうではないとは願いつつ。今でも絶えていないものであろうから、意識し続けたいと思う。

「歌集 白描」
第一部 白描

〈診断〉
 家を棄てて
さらばとてむづかる吾子をあやしつつつくる笑顔に妻を泣かしむ

「むづかる」は憤る、幼児などが機嫌悪くすねたりただをこねること。子どもをあやしながら作る笑顔を見て、事情を知っている妻は泣いてしまう。妻が泣いた、という言い方ではなく、「泣かしむ」である所に、強く胸をうたれる。平易な言い方になるが涙無しには読めない一首。

〈帰省〉
 日を経る儘になじみそめたる子はお八つの菓子等を頒ちつつ
ふたたびを訪ひてよとねもごろにわが童は我をもてなす

ルビは訪(おとな)ひて、童(わらはべ)。病院から一時帰省したとき、子どもは嬉しかったのだろう、父に懐いてお菓子を分けながらまた来てよと懇切にもてなす。これも涙無しには読めない。子どもの純真さが心を貫く。詞書の「なじみそめたる」というのも、それまでは子と距離が開いていたような言い方で、海人の心が伺える。

〈幾山河〉
 面会
偶々を逢ひ見る兄が在りし日の父さながらのものの言ひざま

この前に、父が亡くなる。〈今日の訃の父に涙はながれつつこの悲しみのひたむきならぬ〉などを詠んでいて、父のことを引きずっているところ。たまたま会って見る兄が父のようなものの言い方をする。それは良いことなのか、嫌なことなのか……。兄が父に近づくという把握に、なぜだか悠久さを感じた。

〈失明〉
 失明
拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひさして声を呑みたり

「物言ひさして声を呑みたり」の壮絶さ。そしてそこまで正確に描写していることに凄みを感じる。言おうとしてやめるということは、途中で気づいてしまったのだろう。上の句の実感ある表現にぞっとする。そういえば失明するとはどんなことなのか、感覚として知ることはこれまで無かった……。

第二部 翳

〈斜面〉
海鳥のこゑあらあらしおもひでの杳きに触るる朝のひととき

杳(とほ)き。海鳥の荒々しい声が聞こえるなか、思いでの遠さに触れる朝。失明の後にあることを考えると、この「こゑあらあらし」も、想像以上のものだろうと思われる。遠い思い出ではなく、「おもひでの杳き」なのが表現としてよく出来ていて、このすっと離れていくような述べ方が「朝のひととき」に収まる。海鳥の声以外はとても静かな歌である。

 白描以後

〈春の三角標〉
命がけのたはむれごとも世の涯の空を翔つてもてはやされよ

「命がけのたはむれごと」とは一体なんだろう。人生?空想?作歌?
「もてはやされよ」というところに、これ以上無い強い願いを見る。一瞬怒りのようにも聞こえた。

一冊通して一人の人生が見えてきて、それほど景色や心情を想起させるような細かな描写がされている事に感動する。素晴らしい歌人であると思う。

以下、挙げていないものの中から好きなものを選んだ。

ひとしきり跳ぶや跳ぶや海豚のひかりつつ朝は凪ぎたるまんまるの海

竹林にひとつの石をめぐりつつ言ふこともなきしばしなりけり

この空にいかなる太陽のかがやかばわが眼にひらく花々ならむ

囀りの声々すでに刺すごとく森には森のゐたたまれなさ

岩かげに脚をひたせば鰭の緋い小魚はすぐに友だちになる

いつしかに狙ひ撃つ気になつてゐるそのするどさをはつと見返る

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