頭の悪い親について。幸福と不幸の種

自分の考えが普通、常識、当然と思う人間とは本当に関わるのがダルい。

自分が中央からどの程度外れているかを測りながら生きていない。
お前は全人類の標準代表なのか?

まず100%ありえないんだよな。
大体、”普通の人間”を定義しようとすると、性差が絡んでくる。だったら男性女性で分けたら良いのかとなると、母数にLGBTが含まないデータから導いた答えは、普通の人間と言えるのか。

(聖人の例として)マザー・テレサやガンジーから、(悪人の例として)チカチーロやポルポトまで、そういう例を含めてはじめて普通の人間の定義に及べるのではないのか。


しかし、「普通の人間は!」と声を荒げる人間(サンプル数1)にこう言うと、「そんな訳の分からない話をするのは普通じゃない!」

前提を固めずに話をするというのはどうやら”普通の話”ではないらしい。
ま、俺はそうするのが話し合いには必要だと考えるんだけれど、バカにはそんな考えがあろうはずもない。
「お前は、俺とは相対的に頭が悪い」と言っても「そんなことない!」だ。

ま、コレが他人であれば問題も起こらないのだが、身内だからたちが悪い。
俺の価値観からすると、親だろうが何だろうが、他人だろうが自分だろうが、別に死んでもらっても死んでも構わん。尊属殺の規定もなくなって久しいしそのくらいはして差し上げてもいいのだが、まぁ個人的にはまだ塀の中に入るのはデメリットが大きいからしないだけである。

 

しかし、思うに、彼らは幸福である。

自分の存在理由を疑うことなく、自己の正当性を疑うことがない生き方というのは、不幸になる種子を取り除いた生き方なのだ。
自らを疑うというのは、苦痛を伴う。この苦痛は、ときに自死を誘発するほどに強烈なものであろう。それらを除いた状態で生きていかれるのだから、それは幸福としか表現のしようがない。

かといって疑うことが不幸かといったらそういうわけでもない。そう、不幸自慢がしたいわけではないのだ。あくまで不幸になる種子であって、これを上手にコントロール出来るのであれば、必然的に不幸になるというわけではない。

残念なことに、この思考は不可逆であり、囚われてしまうと不幸になりやすい。俺もこの疑問に囚われて十数年になろうか、いまだに「生きるべきか、死ぬべきか」の答えは出ていない。

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