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悼む身体について——『イサドラの子どもたち』と『ヴィタリナ』

八坂 百恵

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ダンサー達の指先は重たい。踊るときはもちろん、付箋をめくる、本を閉じる、外した指輪を置くなどの日常の仕草にもその重たさは現れており、カメラもそれらをしっかり見据えている。ダミアン・マニヴェル監督『イサドラの子どもたち』(2019)のシーンである。

『イサドラの子どもたち』(以下『イサドラ』)では、モダンダンスの始祖として知られるイサドラ・ダンカン(1877-1927)がまだ幼い子ども2人を事故で亡くした後、深い悲しみの中で創ったソロダンス《母》に、4人のダンサーが邂逅する。本編は三部構成になっている。はじめに出てくるのはイサドラの残した譜面を読み解いて踊るアガトで、次のパートに出てくるのは《母》の公演に向けて練習するダウン症のマノンと、その指導にあたる2人の子を持つマリカ、最後はその公演を見に来ていた、足の悪い年配のアフリカ系女性のエルザである。ダミアン・マニヴェルは、ドキュメンタリー的手法を用いながら物語を構成し、虚実をないまぜにする作家で、本作も例外ではない。

虚実をないまぜにする作家による悼む女性についての作品ということが、ある作品を想起させる。ペドロ・コスタ監督『ヴィタリナ』(2019)である。『ヴィタリナ』では、アフリカのカーボ・ヴェルデで40年間夫と離れて暮らしたヴィタリナ・ヴァレラが、夫の危篤の知らせを聞いて彼の出稼ぎ先のリスボンへ向かうも、到着すると既に埋葬が済んでいる。ヴィタリナは彼の家に訪れ続ける弔い客から生前の夫について聞き、自らもぽつぽつと彼について語りだす。ヴィタリナを演じたのはヴィタリナ本人で、これは彼女のこれまでの人生についての映画であり、彼女から出てきた言葉を台詞にしている。

どちらも愛する者を失う瞬間は描かれず、『ヴィタリナ』では夫を失くしたヴィタリナの姿を、『イサドラ』では幼い子達を失くしたイサドラの身体を模倣する4人のダンサーの姿を映す。『ヴィタリナ』のほぼ全てのシーンは暗闇で、そのシーンで見るべきものだけが照らされて浮かびあがるような、明暗差の強い画が続く。印象的なのは亡くなった夫ジョアキンを責めるヴィタリナの、鋭い眼光である。いっぽうの『イサドラ』は、全編を通して光が柔らかく、ダンサー達の眼差しはほとんど穏やかで、指先の重たさや、踊るときの子どもたちを愛撫する手つきが印象的である。『ヴィタリナ』では眼光の鋭さに、『イサドラ』では指先や手つきに、悼む身体が現れているようだ。ここでダンサー達の眼差しを「ほとんど」穏やかだとしたのは、最後のダンサーであるエルザの眼差しが暗く、深い寂しさが感じられるものだったからだ。

ヴィタリナとエルザは、愛する人を失くしたという物語を共有しているうえ、些細だが類似する表象がいくつかみられる。飛行機のステップからリスボンに降り立つヴィタリナの足元のショットと、バスのステップからホームタウンに降り立つエルザの足元のショット。ヴィタリナが慣れない飛行機でリスボンまでの旅を終え、夫の家で虚空を見つめる姿と、エルザが途方もない距離を杖をついて帰宅し、椅子に腰掛けて虚空を見つめる姿。ヴィタリナの亡き夫の家にある遺影および蝋燭と、エルザの一人暮らしの部屋にある幼い子の遺影と蝋燭。どれも、彼女たちの長くて困難な人生を象徴するものだ。

マノンのダンス公演を観賞した夜、エルザは杖をつきながら家までの長い距離を歩く。帰宅すると、公演パンフレットから抜粋した「太古より眠るダンスを私の悲しみが目覚めさせる」と締めくくられるイサドラの言葉を、手帳に書き写す。そして、カーテンをつかむエルザの指先が重力をもってゆっくりと滑り降りると、《母》を思わせる全身を使ったダンスで、彼女の悲しみを表現する。子どもたちを空に送って上を見る最後の仕草のあと、エルザの表情が真正面から捉えられると、ダンスを終えてもしばらく天井を見上げているエルザの眼が強く光る。100年前の女性の身体の模倣を超えて、現代を生きるエルザの悲しみが「太古より眠るダンスを目覚めさせる」とき、同じく現代を生きるヴィタリナが亡き夫を悼むのに似た眼光が、ここにも表出している。

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八坂 百恵:1995年生まれ。神戸出身、京都在住。同志社大学文学部美学芸術学科卒。現在は京都市内の商店街の中にある文化複合施設で、映画スタッフ(受付や映写など)をしている。


ダミアン・マニヴェル監督『イサドラの子どもたち』 https://isadora-2020.com

ペドロ・コスタ監督『ヴィタリナ』 https://www.cinematrix.jp/vitalina/

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