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月に1冊ディックを読む➂「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」

年初に今年決めたことは、今年もほとんどないですが、1つだけ。月に1冊、ディックの本を読むこと。ディックは高校から大学にかけて読みふけったSF作家の1人です。凄く自分の価値観に影響を与えているのか、価値観が近いから読みふけったのか…。「ユービック」「火星のタイムスリップ」の次に選んだのはコレです。

【この作品が書かれた年】1964年(発行年は1965年)

【この作品の舞台】2004年の数年後ではないかと推察される。「いまでも思い出すが、たしか2004年のある日、団地の冷房システムが故障で一時ストップしたために、LPレコードのコレクションがべったり1つにくっついてしまったことがある」とのフレーズより。

【この作品の世界に存在する未来】かかりつけのスーツケース精神分析医スマイル博士、流行予測コンサルタント、流行先取り課、予知能力者、電送新聞、背中に強制着用する小型クーラー、パーキ・パット人形、パーキ・バット模型セット、昇天剤、キャンD、チューZ、人工加速の大脳皮質発達、E療法、国連の選抜徴募法、火星移住、金星移住、ガニメデ移住、プロキシマ星人、自動運転タクシー、映話、放送衛星、グラック、暁人、ジャッカルもどき

【原題】「THE THREE STIGMATA OF PALMER ELDRITCH」

【読んだ邦訳本】ハヤカワ文庫SF590 浅倉久志訳

「つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなきゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切り抜けれるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?」~~パーキ・パット・レイアウト社で各部課の流行予測コンサルタントに配布された録音メモの一部。レオ・ピョレロが、火星から帰った直後に口述したもの。

本作冒頭に記述されているパラグラフです。そして、この短いパラグラフについて、ディック自身が次のように語っています。

「実をいうとこのパラグラフこそ小説なのです。あとは、つけたし、というより、むしろその1パラグラフの本が生まれるにいたった、すべてのいきさつのフラッシュバックなのです。わたしが何カ月ものあいだ苦労して書き上げた75,000語は、この本の中でほんとうに重要な一つの短い名声を解説し、その背景を提供しているだけにすぎません。この声明は、私の信仰そのものだといえます。それは神への~よい神、わるい神、あるいはその両方への~信仰というより、むしろ、我々自身に対する信仰なのです」。

本当に今、私たち人類は、ひどい状況に直面しています。でも、これまでも人間はまずまずうまくやってきたんです。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切り抜けれるという、そう55年前のディックが勇気づけてくれます。

本作、ある意味ではとてもディックらしい小説です。灼熱地獄と化しつつある地球、そして火星をはじめとして多くの星に国連によって地球を追われて強制移住された人々、彼らは過酷な環境の下でバラ色の生活はありません。パーキパッド人形を中心とした箱庭的な家庭世界にドラックを使って入り込むことが唯一の愉しみと化している世界です。そこにプロキシマ星域から星間実業家であるパーマー・エルドリッチが戻ってきます。パーキ・パッド人形とドラックである「キャンD」を独占的に販売しているパーキ・パット・レイアウト社のレオ・ピュレロは、パーマー・エルドリッチがプロキシマ星域から持ち込んだ新たなドラック「チューZ」に「キャンD」が市場を奪われるのを恐れ………。

主人公であるパーキ・パット・レイアウト社の流行予測コンサルタント(予知能力者が流行予測するというスキーム)であるバーニー・メイヤスンはじめ、多彩な登場人物がきちんと描かれ、とにかく舞台と仕掛けと小道具が激しく多様であり、繰り広げられるシチュエーションもいずれも独創的かつ魅力的であり、ページ数の数倍のインパクトをもって読み続けることができます。そして、特に「チューZ」を服用してからの後半は、まさにディック作品の真骨頂となりますが、何が現実なのか、どちらが現実なのか、これは現実なのか、突然に現実だと思っていた床が抜けて、新たな床に足がついたと思ったらまた床が抜ける感覚、それが何重にも続く感覚、まさに活字が脳を突き動かします。文学って凄いな。

ちなみに、パーマー・エルドリッチの3つの聖痕とは、生命のない義手と、ジェンセン式義眼と、ひどく変形したあご。終盤は、すべてがパーマー・エルドリッチ化してくる世界で、この3つの聖痕が露出し続けます。

※今のハヤカワSF文庫のディックの本の表紙、とてもいけてないです。

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