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日常の中の非常の備え

 2011年3月11日午後2時46分から早、9年を過ぎ、この間、我々は実に多くの惨禍にみまわれました。台風に洪水、土砂崩れに風水害、地震、大規模火災は引きも切らず世界各地を襲い続けています。それは私たちの心に刻まれ、消えることはありません。1000年に一度の非常時と言われ続けた大きな惨禍から10年を経ずに、この度の【COVID-19】という名の惨禍。

 世界は、自然環境に人の行き来や人も物も、直接的に接してきました。この倣いは太古の昔から現在まで通じ、人類の歴史そのものかもしれません。そこにあるのは、アナログに直接つながる人と人であり、自然ともリアルに繋がっていて、環境が変わろうとも時代が変遷しようとも、たとえデジタル化した通信網やITにAIが駆使されてもなお、その人と人の【つながりや生業】は人間である私たちの不変的な行動の原則とも言えます。

 老子 道徳経の第1章に【道の道とすべきは、・・・】を読む。
和訳すればこのようになるのか・・                  無から有を生じると言うと、線的な動きを想像するかも知れないが、決してそうではなく、無と有は円環を為していて始めも終わりも無いものである。同じものが、その状態の変化によって、名前や形を変えて存在する。
生と言い、死と言うのも、それらは、一時の状態の変化に過ぎない。「般若心経」の「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」ということと同じことをここで老子は述べているのである。孔子の儒教が儒学として発展した日本。孫氏や老子の兵法も進んで学びました。仏法も神道もあります。

 備えあれば憂いなし※1、の気概で人々は無い物ねだりで買いだめをするのか。備えが必要とされる時代にあって、何が【備え】なのかと、今、私たちは問われているのではないでしょうか。 物品が備われば私たちは幸せなのだろうか。危険が回避されるのだろうか。惨禍に見舞われずに済むのでしょうか。現在も風評が蔓延し、被災沿岸部の産物は売れず、農産物や流通も、この惨禍の中にある今。そんな経験をして疲弊したこのある私たちだからこそ今、自らは 風評を発せず、本質を見極め、目の前にある現実をとらえ、事実を認識して、行動に移すべき時なのでは、と感ずるのは私だけでしょうか。物事をしっかり考えるという意味の【備え】である【リテラシー ※2】が必要であり、現代に生きる私たちに今、求められているのではないでしょうか。

 【備えとしてのリテラシー】                    惨禍は常に隣にあると思い知り、生活をするなかで、表現された事案を、適切に理解・解釈・分析し発する事が肝要であり、そのうえで、自らは風評を発しない。風評に惑わされ乗らない。という考え方の備え。

今、私たちが直面する喫緊の課題に、【備えとしてのリテラシー】が発揮できるか否かが問われています。

※1 殷の宰相傳説の言葉。『書経』説命中には、「これ事を事とする(するべきことをしておく)乃ち其れ備え有り、備えあれば患い無し」とある。
「憂い」は「患(い)」とも書く。 

※2 何らかのカタチで表現されたものを、適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する

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