見出し画像

英語はスキルではない?

米国に在住しながらも、日常会話レベル以上のむづかしい英語も大して理解できていない事も少なくない私が、こんな偉そうなタイトルにしてしまっていいのかと思いつつ、異人種コミュニケーションに関して思うところを少し話してみたい。

最初に英語はスキルではない?って書いてしまったけれども、英語が話せたり、能力が高いってことは、もちろん海外生活ではものすごく便利だし、役に立つ事ではある。そして、サバイバルには当然ある程度の語学力は必要だ。

とはいえ、英語のスキルが完璧ではない私が常日頃から外国人との会話で思うのは、相手が自分のネイテイブではない不完全な英語を、どのぐらい心の耳で聞いて理解してくれているんだろうか、という部分だ。パーフェクトバイリンガルでもない限り、ボキャブラリーには限りがあるし、日本語でいくら色々な表現を知っていたとしても、それを全く同じレベルで英語に変換するのは当然人により無理がある場合もある。(もちろん最近は変換器なども売られているので、それを使う手もなくはないんだとは思うけど、やはり、対人間としての話をここでは書きたい。)

だから、語学がそれほどは至らない私が会話で常々大切にしているのは、自分自身もいかに心の目や耳で相手の意図をちゃんと読み取れるか、みたいな所だ。つまり、平たく言うと、相手の反応をできるだけ観察して、この人はどの当たりのレベルで自分の言葉を受け止めているんだろうか、本気で共感してくれているの?それとも雰囲気だけのどこにでもあるイエスなの?あるいは優しさの表現?みたいなところを可能な限り読み取りたいと心がけている。

そして、多くの場合、会話の相手が心ある英語のネイテイブであれば、外国人に通じやすい言い回しを選んでくれたりする場合も少なくない。でも、だからこそ、相手がどのぐらいの温度でその言葉を発しているのか、どのぐらいの繊細さでその言葉を選んだのか、みたいなことをできるだけ感じ取る部分を大事にできればいいなあと常々思っている。

英語にはPerceptiveっていう言葉がある。直訳すると知覚的っていう意味になるんだけど、もう少し広義になると、認識能力とかそういう風なニュアンスも入ってくる。要するに相手を見て状況を察したり、自分の五感を使って何が起こっているのかをいち早く読み取るみたいな事だ。このPerceptiveである、って言うことが、私は外国語での会話の中でかなり重要なことなんじゃないだろうかと常日頃から思っている。

もちろんその為には、最低限度の単語とかは多少は知っていた方がいいかもしれないけど、でも、そんなにむづかしい言葉を使わなくても、何が言いたいのかという意図を読み取れる人も中にはいる。もしも会話の相手が、お互いにPerceptiveであろうとするならば、たとえ拙い英語同士の外国人であったとしても、心が通じあうこともあるだろうし、それが恋愛のケミストリーに移行して行くことだってなくはないと思う。

だから、英語はスキルではない、と書いたのは、必ずしも英語力=コミュニケーション能力と全く同じ、ということではないという意味だ。そう考えると、ほかの言語を勉強して使う事があったとしても、全く違う国から来た人たちと、言葉の壁を超えた目に見えない心の糸で何かが通じ合うって言う瞬間は、やはり、誰でも多かれ少なかれ経験する事があると思うし、そう感じられた時、見知らぬバックグランドを持つ相手との距離が少しだけ縮まった気持ちになるのは決して悪いものではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?