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九州民陶、小鹿田焼・小代焼について

民によって作られ、生活のために使う陶器のことを「民陶」と呼びます。
柳宗悦から「世界一の民陶」と絶賛された小鹿田焼など、九州各所に広がる用の美である陶芸品のご紹介。

小鹿田焼(おんたやき)

大分県日田市の山中(福岡との県境に位置する)小鹿田皿山で10軒の窯元が昔から変わらないやり方で素朴な日用雑器をつくり続けています。小鹿田焼は一子相伝という伝承方法を取っており、窯主の長男だけがその技術の継承者となるため、窯元は増えることなく技法は昔のままに伝承され続けてきました。

約300年以上の歴史を持つ小鹿田焼。先人が築いた伝統の良さを残しつつ、現代の暮らしや感覚に寄り添う器であることを大切に、ひとつひとつ丁寧に作られています。

もう少し詳しく以下でご紹介しています。

こちらは、ある新聞社の撮影場所としてアテンドした際の1シーン。川の水を利用して陶土を砕いています。「唐臼」(からうす)と呼ばれ、始終動きを止めず聞こえてきます。

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日田・焼き物、小鹿田焼の歴史

小鹿田焼のルーツは九州の陶芸の発展の歴史と関係しています。

小鹿田焼の兄弟窯と言われる小石原焼は、1682年に筑前福岡藩・3代目藩主が磁器の生産が盛んだった伊万里にならい、焼き物を作り始めたのが起源とされています。1669年から同地で茶陶を手がけていた高取焼との交流により発展し陶器が作られるようになりました。

時期を経ず、宝永2年(1705年)に小石原村 (現在の福岡県朝倉郡東峰村) から小石原焼の陶工、柳瀬三右衛門を招き、小鹿田皿山 (現在の大分県日田市)に登り窯を築造したことが小鹿田焼のはじまりと言われています。

当時繁栄していた江戸幕府直轄領、日田の代官の命により、領内の日用的陶器の需要をまかなうのが主な目的でした。いずれにしても小石原焼と兄弟窯と言われてる所以はここにあります。招いたのが黒木氏、土地を貸したのが坂本氏、柳瀬氏と三家をルーツとして今でも一子相伝を継続しています。


小鹿田焼が脚光をあびるきっかけとなった理由、民藝運動

今では伝統的な民陶として日本全国に知られている小鹿田焼。小鹿田の皿山地区は、明治以降、農業ができない時期に窯業を扱う半農半陶(はんのうはんとう)で生計を立ていましたが、これは民藝運動のころまで続きました。大分県の山間でひっそりと作られていた陶芸品が、脚光を浴びるきっかけとなったのが大正時代に始まった民藝運動です。

無名の職人の手によるものづくりの中に美しさを見出す民藝運動には、陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司らが参加。そのなかでも中心人物であった柳宗悦は、自身の著書『日田の皿山』(1931年) で「世界一の民陶」と小鹿田焼を称賛し、世の中へ認知が高まるきっかけとなりました。

同じく運動に加わっていたイギリス人の著名な陶芸家バーナード・リーチは小鹿田の皿山地区を訪れ、約一月近く滞在しました。製作活動にいそしむとともに、小鹿田焼の職人たちにピッチャーのハンドル付けなどの陶芸技術や、陶芸を生業するための心構え伝えていきました。このころの民藝運動のうねりの中で、小鹿田焼の名は全国へ広まっていきました。

1970年3月に国の無形文化財として指定を受けたことも、さらに知名度を上げるきっかけとなりました。1975年ころにはすべての窯元が専業化し、現在も生活の道具としての工芸品を製作し続けています。

詳細について以下にまとめています


小代焼(しょうだいやき)

福岡との県境に位置する熊本県荒尾市。
小代焼は荒尾市にたたずむ小岱山の麓から採れる、鉄分を多く含んだ良質の小代粘土で作られる陶芸品です。

発祥は今からおよそ400年前とも言われ、その特徴は高い芸術性を誇ると同時に、料理や花などを引き立てる素朴さと力強さを兼ね備えた作風にあり、普段使いのための器として今も受け継がれています。また、その実用性の高さが故に五徳焼などとも呼ばれ親しまれています。

以下は小代焼ふもと窯に伺った際の写真。玄関横にあった大皿はキャラメル色で立派なイデタチ。

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