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一本の細い道。不登校・ひきこもる人、その家族とともに。

ふり返れば「子ども相談」の現場に立って47年。

私の歩いてきたあとに「一本の細い道ができている」と、はるか遠くまで見渡せる年齢になりました。

「相談に来る人はすでに答えをもっている」といわれますが、ゆっくり話ができる時間と、聴き手とのあいだに信頼関係があれば、たしかにそのとおりの展開になります。

しかし、私たちの時代の不幸は、その時間の余裕と信頼関係をつくる環境を奪われていることです。

目の前で悩み傷ついている子どもが遠慮がちに声をかけてきても、大人たちに、向きあって聴く心の余裕がありません。

忙しい社会は、大人に迷惑をかけない都合のいい子どもを求めます。子どもは常にしつけや教育の対象であって、人格をもった一人の人間として尊重されることは少ないという現実があります。

高学歴、年功序列、終身雇用型の社会が続き、家庭が学校に従属していきました。成績をつける教員は、子どもたちの生殺与奪だの権限をもち、学校は年々息苦しい場になっていきました。

その間、平成の30年間をとってみても、延べ300万人を超える子どもが「不登校」と数えられています。

いまなお、学校信仰の闇は深いのです。

医療信仰はさらに深刻です。

50余年前「登校拒否」が問題となった当時、原因は親の育て方や家庭の問題、子どもの性格にあるといわれていました。

「母原病だ」という高名な医者もおり、それを喜んでとりいれる学校現場がありました。

学校でいじめや懲罰的指導に傷つき心弱っている子どもの訴えに耳を貸さず、親と子どもの個人の病理とする現実に私は怒りを覚えました。わが子に登校を強制し激しい抵抗にあった親たちは、学校や専門家のいうことに疑いをもち、声をあげました。

自然発生的に全国津々浦々に親の会が生まれました。

いじめや体罰などで次々命を絶つ子どもたちを前に、学校より子どもの命が大事と母親たちは立ちあがりました。この30年ほど全国のあちこちで、母親たちが手弁当で市民集会を企画し、私も子どもの立場に立って、親が主体的にとりくむ講演会や合宿・相談会に足を運びました。

北は北海道から南は九州・沖縄まで、それは野火のごとく全国に広がった不登校を考える歴史の初期の潮流でした。

この経験で私はほんとうに鍛えられ、育てられたのでした。

学校に行かない子どもは大人になれないとおどかされ、学歴社会の扉を閉め出された子どもたちは母親たちの連帯を防波堤に「登校拒否に誇りをもって生きたい」と集会で宣言し、いま親世代になっています。

「ぼくたち、私たちの前に道はない。ぼくたち私たちの歩いたあとに道ができる」とつぶやいた子どもたち。その子どもたちの歩いたあとに一本の道ができています。

この道は私もいっしょに歩いた道。一本の細い道は踏み固められ、未来に通ずるたしかな道になっています。

大丈夫、学校に行かなくても大丈夫。

この道は先行く人がいて、あとから来る人がいる。

この本に収められた対談や講演の記録には、当時の時代の空気が背後に流れていると思います。あわせて読んでいただければ幸いです。

(『おそい・はやい・ひくい・たかい』No.109「不登校」「ひきこもり」の子どもが一歩を踏み出すとき「はじめに」より/写真:吉谷和加子 相談室「モモの部屋」への小径と相談室での内田良子さん)









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