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”困っていたら助ける” 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」感想 ~ ”情報”と”意味”の世界

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 伊藤亜紗 著 感想

最初は目の見えない人は世界をどう捉えているのだろう?という好奇心からでした。
でも、読んでいくうちにもっと深く考えさせられました。
社会全体のことも。

視覚障害者について書かれた本で、そして障害者への向き合い方を考えさせる本です。
けれど、それだけにとどまらない問題提起も提示していると思います。


「情報」と「意味」

僕らは世界をどんなふうに生きているのか?
人は世界の何に対して生きているのか?

普段生活していて、そんな問いはふつうには浮かんできません。
けれど、目が見える人と見えない人の対比から浮かんでくるこの問いが、実は人と人とのコミュニケーションにはとても重要なんじゃないかと思います。

この本の重要なポイントは「情報」と「意味」の対比だと思います。

僕らの周りには、いろんな“物”があります。
地面があって、木が生えていたり、机があったり、猫がいたり、トマトがあったり、そして“人”がいたり、、、、
そういった“物”を見たり、触ったりしながら認識しています。
それらはすべて「情報」です。
そういったさまざまな「情報」を受け取りながら僕らは生きています。

でも、人はそういった「情報の世界」を生きているのでしょうか?

ある人にはその木が障害物でも、別の人にとっては癒しかもしれません。
花子さんにとっては、トマトはおいしい食べ物ですが、太郎君にとってはまずいもので、あるシェフにとってはただの彩りで、八百屋さんにとっては商品だったりします。
隣にいる“人”がある人にとっては友達で、ある人には敵だったりします。

人によってその「情報」の「意味」が違うのです。

僕らは「情報の世界」を生きているのではなく、本当は「意味の世界」を生きているのだと思います。

この本にでてきますが、ある人にとっては研究室への道は“ただの坂道”。
けれど、目の見えないある人には“山を下っている”という「意味」になったりします。
研究室へ向かう斜面の道という物理的「情報」は誰にとっても変わらないはずです。
けれど、その「情報」を、目を使って受け取るのか、そうでないのかで「意味」が変わり、さらにその人の経験などにより、その道を好きになったり嫌いになったりもします。
それこそ人の数だけ「意味の世界」があるのだと思いました。

「情報」はだれにとっても同じ。
木は木だし、トマトはトマトだし、太郎君は太郎君で、花子さんは花子さん。
しかし、人によって「意味」は違います。

人はそれぞれ違う「意味の世界」を生きているのだと知ることは、人と人との関わり合いではとても重要だと思います。
同じ「情報」を同じ「意味」だと勘違いするので、対立や誤解やお節介が生まれるのではないでしょうか?
この本を読み、目の見えない人はどう世界を見ているのかを知ることが、そういった気づきや反省を与えてくれます。


逆説

この本は逆説にふれていると思います。

誤解を生むかもしれませんが、目が見えない人はほんとうに不自由なのでしょうか?

目の見える人は、目の前の視覚情報や過去の視覚情報に囚われてしまって、実は目が見えない人よりも多くを“見逃して”いるのでは?

目の見えない人のほうが、視覚情報に囚われないので脳に余裕ができたり、直接の感覚に注意が向くので、目が見えている人よりも“見えているもの”もあるのでは?

普通は目が見える人が見えない人をナビゲートすると考えますが、この本では美術鑑賞などをあげて、見えない人だからこそ見える人をナビゲートできる例もあるのだと示しています。

障害は一般的にはマイナスのイメージかもしれませんが、ユーモアなどを通じてプラスに転じることもできるとも書かれています。

この本の良いところは、こういった逆説を投げかけてくれることです。
今までの自分の中の“当たり前”を壊していきます。
今までの“当たり前”のままの方が安心できますし、今までの自分を壊していくと痛みを感じることあります。
けれど逆にそれが、囚われからの解放や、新しい学びや成長につながり心地よさも感じます。


僕たちにできること

この本に書かれているように、目が見える人を“特別視”する必要はないのかもしれません。
「情報」の認識の仕方が違うだけで、目が見えることが優れているわけでもありません。

けれども、すべてこのままでいいわけでもないと思います。

「社会」は、人が豊かに生きるためのシステムです。
つまり、「社会」は人が幸せに生きるための「道具」です。

でも、その「道具」は目が見える健常者を前提として作られています。
なので、障害がある人にとっては使いづらい「道具」です。
目が見えない人には使いづらく困ることも多いと思います。

そこで、目が見える人にできることは、「困っていたら助ける」という単純なことだと思います。
道具を上手く使えない人がいたら手助けをするという単純なことです。

もちろん、こういった本を読み、社会の仕組みを変えていこうとするのも大切だと思います。
けれど、僕にはそんな力はありませんし、どうすればいいのかも分かりません。
それに、一人残らず全ての人に使いやすい道具なんてありません。
だから、まずできることは「困っていたら助ける」だと思います。
それなら僕にも少しはできるはず。

それは、障害者に限らないと思います。
健常者だって困ることがあります。
そこでできることは「困っていたら助ける」という単純なことです。

コミュニケーション

そこで、この本には大切な気づきがあると思います。

“人は「それぞれ違う意味の世界」を生きている。”

僕の困ってるの「意味」と、相手の困ってるの「意味」が違うかもしれません。
僕の「助ける意味」の行為が、相手にとってはそうではないかもしれません。
人はそれぞれ違う「意味」の世界を生きているのですから。

だから、本書のように自分の“当たり前”を一度疑って、相手の立場に立ってみる。
でないと、押し付けやお節介やそれこそ特別視になってしまうと思うのです。

自分の“当たり前”を疑って、つまり「自分の意味の世界」から抜け出してみます。
そして、相手の立場に立ってみる、つまり「相手の意味の世界」に入ってみます。
これがコミュニケーションだと思います。

そして、単に言葉の交換だけがコミュニケーションではないと思います。
極端に言えば、僕は植物とだってコミュニケーションはとれると思っています。
植物だって人とは方法が違うけれど、世界から「情報」を受け取りながら、植物としての世界の「意味」を生きているのです。
そこで、植物にとっての「世界の意味」を想像して、植物に接することがコミュニケーションなのだと思います。

“コミュニケーションを大切にしながら困っていたら助ける。”

一見、ハードルが高く感じます。
けれど、何をしたって、どの道、失敗はつきものです。

時には失敗もしながらも、
「困っていたら助ける」という単純なことを、コミュニケーションを意識しながら心がける。

という、心構えを少し持つだけで、少しずつかもしれませんが、いろんなことがずいぶん良くなるのでは?と考えています。

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社会はいつも不安定。
それは人がいつも不安定だから。
人は「意味の世界」を生きている。
「意味」は環境や感情などで、ころころ変わってしまう。
そんな人の集まりが社会だから、社会はいつも不安定。

でも、そんな社会の上に乗ってしか人は生きられない。
そして、社会は不安定だから支え合いが必要。

この本では「自立は依存先を増やすこと」という熊谷晋一朗さんの言葉を紹介している。
依存は一方的ものではなく、相互にしあうもの。
“助ける”と“助けられる”はセットなのだと思う。
けれど、「自分の意味の世界」に閉じこもってしまうと、“助ける”と“助けられる”のどちらか一方しか見えなくなってしまう。

「自分の意味の世界」から抜け出して、不安定な社会に上手く乗り、そしてみんなが上手く乗れるように支え合う。
そのための一助になるとてもいい本だと思いました。


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ありがとうございます。
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アダルトチルドレンだけど、飲食店のなんちゃって店長やってます。ダメな人間だったけど、ずいぶん成長できました。そんな経験を活かして、だれかの助けになれるよう書いてみます。良い社会になるといいな、なんてことも考えます。 哲学、映画、読書、心理学、エッセイなどなど、、、