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30年日本史00794【鎌倉末期】関戸の戦いと鶴見合戦

元々は「毎月16日に供養を行っている」と記していたのですが、kojuroさんが観音寺に実際に行ってくださり、供養は毎年5月16日に行われていることを確認してくださったおかげで本稿を最新の情報に更新することができました。kojuroさん、ありがとうございました!

 分倍河原の戦いが終了した元弘3/正慶2(1333)年5月16日。逃げていく幕府軍と、それを追跡する新田軍との間でもう一戦起こります。関戸(東京都多摩市)の戦いです。
 分倍河原から退いた北条泰家は、5万の軍勢で関戸に防衛戦を張りました。この関戸という場所には、鎌倉幕府が設置した関所である「霞ノ関」がありました。
 勢いに乗った新田軍はこの関所に総攻撃を加えます。苦戦する幕府軍の中にあって活躍
したのが、北条家家臣の横溝高貞(よこみずたかさだ:?~1333)と安保道潭(あぼどうたん:?~1333)です。横溝と安保は大将の泰家を逃がすため敵の前に踏みとどまり、壮絶な討ち死にを遂げました。今も関戸古戦場には横溝と安保の墓が残っており、近くにある観音寺では毎年5月16日に戦いで亡くなった兵の供養を行っています。
 結局、関戸の戦いもまた新田軍の勝利に終わり、幕府軍は鎌倉へと逃げ帰っていきました。
 同じ頃、鶴見(横浜市鶴見区)でも並行して幕府軍と倒幕軍の戦いが起こっていました。幕府方は、北条泰家率いる主力軍とは別に、金沢貞将率いる別働隊を派遣し、新田軍を横から狙えるよう計画していたのです。一方、新田義貞に味方する小山秀朝(おやまひでとも:?~1335)と千葉貞胤(ちばさだたね:1292~1351)もまた新田軍の本隊とは別行動で鎌倉に向かっており、両者は鶴見で遭遇して合戦となりました。
 この合戦にも幕府方は敗れ、金沢貞将は鎌倉へと逃げ帰りました。
 鎌倉に逃げ帰ってきた者の中に、長崎高重(ながさきたかしげ:?~1333)がいました。高重は高資の子で、長崎家の家督を継ぐべき嫡男です。高重は敵の首級を15個も挙げ、矢を受けて血まみれになった状態で帰ってきました。
 長崎円喜は傷ついた孫を迎え、傷の手当てをしながら
「昔から、『子の出来を見るにはその父を見よ』というが、お前は上様のお役に立たない者と思って粗略に扱ってきたのは誤りだった」
と言って、常日頃は叱責してばかりだった孫を涙ながらに褒めちぎりました。高重が普段はどんなふうに出来の悪い孫だったのか、記録がなく定かではありませんが、円喜は子の高資も孫の高重も共に出来が悪く、長崎家の家督を継がせられるか心配していたようです。
 高重もまた涙を浮かべてかしこまり、祖父と孫とが抱き合っていたところに、六波羅探題が滅亡したとの知らせが鎌倉に届いてきました。幕府は暗澹たる空気に包まれます。
 幕府は六波羅滅亡という情報を敵に知らせないよう努めましたが、情報はやがて新田軍にも漏れ伝わってしまいました。新田軍の士気が大いに上がったところで、遂に5月18日から鎌倉攻略戦が始まります。

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